クラシックとはどんな音楽か
歴史を超えて聴かれる音楽
さて、いよいよ本題に入ろう。話題の。クラシック”とは、一体どんな音楽なのであろうか。
そのことを説明する前に、まず音楽を分類してみると、私たちの周囲にある音楽は、大別
して「日本の音楽」と「外国の音楽(洋楽)」との二つ。外国の音楽はさらに、「ポピュラー
音楽」と「クラシック音楽」に分けることができる。ポピュラー音楽とは、シャンソンとか
タンゴ、ジャズ、ロック、フォークといった、その時その時にヒットしたものを聴く(日本
の歌謡曲と同じ)流行色の濃い音楽であるのに対し、クラシック(古典)音楽は、その名が
示すように数十年から数百年も昔に書かれながら、埋もれずに生き残って聴かれている音楽
のことである。つまり時代や国境を超えて広く人間の心に訴えかけるもの。何かしら普遍的
な要素を秘めた音楽だといってよいだろう。
何が基準で「時代を超える」「国境を超える」かは、実のところはっきりとしたものがあるわけではない。それほどでもない曲が生き残っていたり、埋もれていた曲が発
掘されてある時点から有名になる。ある
いは一時代もてはやされた曲がいつの間
にか忘れ去られたり、似たような作品の
中から一曲だけが生き残るというケース
もあるから、厳密には運とか流行もから
むのかもしれない。しかし全体的に見れ
ば、ヨーロッパ音楽の流れの中でもては
やされ、影響を与え、歴史をつくり、生
き残って今日の人にも好んで聴かれてい
る音楽―それがクラシックだ、という
風にはいえるかと思う。
多種多様なレパートリー
少なくとも四00年間におよぶ期間の音楽。それも一国でなくヨーロッパ全体を含むとな
ると、当然、内容的にもいろいろな曲があるだろうことは見当がつく。そう、クラシック音
楽の最大の特徴というのは、実は形や内容の異なるさまざまな作品があることである。整理
し概略をつかんでおかないと、つい戸惑って「面倒だなあ」と敬遠することになりかねな
い。そこで、どんな種類(ジャンル)の音楽があるのか。ここでもまず大ざっぱな分類をし
てみると、
(1)交響曲師管弦楽曲闥協奏曲(2)室内楽曲(3)独奏曲(4)声楽曲閨歌劇(5)宗教音楽
などに分かれる、というのがごく一般的な見方である。つまり、どこから聞こえてくるクラ
シック曲も、よく聴くとこれらのどれかに分類できる。各々の違いを頭に入れておけば、混
乱することなくお気に入りの曲を増やしたり整理できる、というわけである。
この分類は、多くの解説書や案内書、カタログなどで使っているほか、レコード店でもC
Dの陳列の基本としているから、まずは覚えておくとよいだろう。
では各々はどう違うのか。簡単な区別をしておこう。「交響曲」はいろいろな楽器を集め
たオーケストラ(管弦楽)によって演奏される楽曲のことで、四つの楽章(部分)からできているのが基本の曲。「管弦楽曲」もまた、その名の通りオーケストラによって演奏される。
が、こちらは特にそういう規定に縛られない自由な形式の曲。といっても内容や用途によっ
て、歌劇の序曲が独立したもの、交響詩、組曲などいろいろなものがある。「協奏曲」はや
はりオーケストラが関係するが、その前にピアノとかヴァイオリンなどの独奏者が登場し。
一人対オーケストラという形で(例外もあるが)演奏される楽曲。ピアノとオーケストラな
ら「ピアノ協奏曲」という風に。
「室内楽曲」は、室内で演奏する程度の規模〔二~一人位〕の楽曲で、各々の楽器が対等
に活躍するのが基本。「独奏曲」は、その名の通りある楽器が単独で演奏されるために書か
れた楽曲(伴奏的な楽器がつく場合もある)。「声楽曲」は、人間の声を主体にした楽曲。
シューベルトやシューマンらのいわゆる芸術歌曲をはじめ、民謡、合唱曲、宗教声楽曲、オ
ペラーアリアなどいろいろなものが含まれる。「歌劇(オペラ)」は、音楽と演劇とを合わせ
た複合芸術作品。芝居としての演技力と、それを盛りあげる音楽の効果とが聴きもの。そし
て「宗教音楽」は、文字通り宗教(主としてキリスト教)に関係のあるミサ曲、カンター
タ、レクイエム、受難曲、オラトリオ、コラール、モテットなど(詳しくは別項)。いずれ
も声楽がからむので、「声楽曲」のジャンルに含めてもよいとまあ、こうした作品が混
在しているのがクラシックの世界というわけである。
器楽曲が多い
クラシックに興味のない人の場合、音楽といえばまず頭に浮かぶのは多分、歌詞のついた
曲、すなわち「歌もの」ではなかろうか。多少ともバタくさい音楽に興味のある大は、映画
音楽とかムード音楽の場合もありそうだが、大方の日本人にとっては、やはり歌える曲。歌
詞つきの曲というのが、音楽のイメージだろうと思う。
ところが、クラシックの場合にはこれがちょっと違う。大抵のファンがまずイメージする
のは、「歌もの」よりも「器楽もの」。すなわちオーケストラ(管弦楽)曲や楽器を主体にし
たものなのである。もちろん声楽ファンやオペラーファンは「歌もの」だというに違いない
けれど、全体から見れば、少数派だろう。
これはどういうことかというと、さきの音楽のジャンル分けを見てもわかるように、あれ
これあるクラシックの中でも、声楽曲はあくまでもその一部。全体としては、管弦楽や器楽
の曲の方が圧倒的に多いからなのである。このことはポピュラーな作品を並べてみればわか
るし、レコード店をのぞいてみてもすぐに確かめられる。歌謡曲やポピュラー音楽と違う、
クラシック音楽のこれまた大きな特徴の一つなのである。
管弦楽曲や器楽曲というのは、楽器そのものの響きや音色、あるいは複数の楽器を組合わせた時の音色や力強さ、そこからかもし出される雰囲気や情緒、劇性などが一番の個性だ
が、歌詞がないだけに抽象的で曖昧である。そのことから、「歌もの」感覚でとらえようと
すると、何を表現しているのか、さっぱりわからず、つい「難しくてわからない音楽」とな
ることが多い。実は作曲家たちも歌曲のつもりで書いたわけではなく、何かを伝えたくて書
いたわけでもない。そういう作品もあったかもしれないが、基本的には自分の心に沸きあ
がった感興、純粋に音楽的な欲求を音にする・響きにすることが目的であって、客観性など
考えていなかったかもしれないのである。
そんなわけで、クラシックが敬遠されがちなのは何かしらこの辺(音だけによる抽象性)
に関係がありそうな気がするが、ともあれ膨大なクラシック曲の大半は、楽器だけによる器
楽・管弦楽曲である、ということは知っておいてよいと思う。
構造的にもいろいろなものが
ヨーロッパ数百年の歴史を背景として生まれた音楽。いくつかのジャンルに分類できるほ
ど多彩だが、実はその大半は楽器だけによる器楽・管弦楽曲であると紹介してきたクラ
シック音楽。もうちょっと個々の曲を観察してみると、構造的にも実はいろいろな曲が含まれ
ている。その点もまた、歌謡曲やポピュラー音楽にない大きな特色といえるものである。例えば、とてつもなく長い曲があるかと思え
ば、あっという問に終ってしまう短い曲も
ある。ワーグナーの「ニーベルングの指環」と
いうオペラ(正式には楽劇という)は、四夜に
わたって上演される四部構成の連作オペラだ
が、これは各々が二時問半から五時間半にもお
よび、合計すると一丑時問半もかかる大作。反
対にショパンの「二四の前奏曲」の中の「第七
番イ長調」などは、わずか四秒ほどで終って
しまう最短の曲。こういう曲が、ほかにもいくらでもあるのである。そうかと思うと、まともに書かれているにもかかわらず、演奏してみ
るとあちこちで音を外したり不協和音を発する、あたかも素人が作曲したかのように見せか
けるモーツァルトの六重奏曲「音楽の冗談」とか、サイコロを振って曲をつくる同じモー
ツァルトの「音楽のサイコロ遊び」、楽器以外の音を加えたレオポルトーモーツァルトの
「おもちゃの交響曲」や、同じくアンダーソンの「タイプライター」「サンドペーパー・バ
レエ」、W・ピストンのバレエ音楽「ふしぎな笛吹き」(街の雑踏音)。そして極端なところでは、演奏者が何もしないジョンーケージの「四分三三秒」…とまあ、これは珍曲のたぐ
い。
そこまでいかないにしても、通常の半分、書きかけのまま愛好されているシューベルトの
「未完成」交響曲だとか、同じ旋律がしつこく繰返されるラヴェルの管弦楽曲「ボレロ」や
サティのピアノ曲「ヴェクサシオン」、ジャズをとり入れたガーシュインの「ラプソディー
インーブルー」、解説が入っているブリテンの「青少年のための管弦楽入門」やプロコフィ
エフの「ピーターと狼」、暗号的な音の仕掛けがあるシューマンのピアノ曲「謝肉祭」、各種
の声楽を加えたベートーヴェンの交響曲第九番やマーラーの交響曲二・三・四・八番…ユ
ニークな構造の曲は、いくらでもある。
一見(聴)しただけでわかるこれら外見的な構造ばかりでなく、細部においてもまたクラ
シック独特の各種の形式-ソナタ、ロンド、変奏、循環形式などが、個性や魅力を引
き出すために有効に使われている。面倒に見えるそれらもまた、曲の内部を覗いてみようと
いう人には興味がつきないものである。
個性こそが歴史に残る
同じ音楽なのに、なぜ歌謡曲やポップスなどは次々と移りかわり、クラシックは後世にまで生き残るのか。その点についてふしぎに思っている大は多いかもしれない。
それは、作曲家たちが曲をつくる時の、基本的な視点にあるのではないかと私は思う。歌
謡曲の作曲家たちのことを思い浮かべるとわかりやすいが、彼らは、例外はあるにしても、
まずは「いい曲を書いて、ヒットさせよう」「多くの人々に歌ってもらおう」と考えて曲を
書く。どのくらい人々にアピールするか、そのことが意識としてはかなり高いように見える
わけである。
ところが、クラシックの作曲家たちは、ちょっと違う。時代により単に注文に合わせてい
た時期もあったかもしれないが、彼らは基本的に「他人と同じものは書かない」「それでは
歴史に残らないから」という意識が強いのである。つまり聴衆にウケることよりも、仲間の
作曲家と違うこと、自分だけの個性を出そうとする意識の方が強いように思えるのである。
あるいはだれかのモノマネをした作曲家もいたが、そういう人は埋もれ忘れられた、という
ことかもしれない。いずれにせよ歴史に生き残った作曲家たちの作品を聴いてみると、それ
ぞれがどこかしら個性的。歌謡曲のように「似ている」という印象は、きわめてうすい。
もっとも、作曲家たちにしてみると大変である。他人のやらないことをやる。一見カッコ
よくは見えるけれど、実際には後に登場する大ほど不利大抵のことは、先輩たちにやら
れてしまうからである。何かないか、何かないかとやっているうちに、いつの間にか自分だけの世界に埋没していき、気がつくと聴衆とはまったく別のところにいる。そういうことも
充分にあり得るわけで、現代音楽が、ある意味で行きづまっている、聴衆離れを起している
といわれるのも、もしかするとその段階に来ているからかもしれない。
声楽曲だけでなく、さまざまな器楽・管弦楽曲が生まれて、それぞれが発展・進化し長い
歴史をつくった。残された曲はだから、どれをとっても形・内容・響き・情緒などの点で他
にない個性があり魅力があるのだそう思って聴くと、クラシック曲は一つ一つが人間に
似ているともいえるのである。
想像・感性で聴く音楽
クラシックの輪郭は、わかった。それを書く作曲家が「他人と違うものを」と心がけるプ
ライドの高い人たちであることもわかった。そういう彼らによって書かれた作品だからこ
そ、独自の個性として評価されたし、歴史にも残った。
それはそれで理解も納得もできるけれど、しかしまだ、正直なところわからない部分があ
る。大半を占めるという器楽や管弦楽の作品を聴いていると、それが何を表わしているの
か、知識のない自分にはさっぱりわからない。響きやムードがいいなあぐらいしかわか
らず、つい眠くなってしまうんだよね。演歌派や敬遠派の人たちも多分、同じ感じ方をしているんじやないかしら?一体、こういうクラシックつて、どういう聴き方をしたらわかっ
たことになるのだろうか?
とまあ、こんな考えの人がいるかもしれない。音楽そのものと向き合った時に感じる、正
直な感想なのだろうと思う。納得いく理由なり対処法があればすんなりと好きになれる筈だ
が、それが見つからなければ、「どうせ、エンターテインメントだ。なにも無理して聴くこ
ともない」と、敬遠することになる。好き・嫌いの、いわば分かれ目である。
この点について、私自身はこんな風に理解しているのだが、どうだろう。つまりどんな作
曲家も、書きたい~・という感興がわいて作曲を行なうのは当然である。そのときのことを
想像してみるなら、嬉しいからということもあるだろうし、悲しいからということもあるか
もしれない。あるいは何かに刺激を受けてとか、頼まれて、金が必要で、突然ひらめいて・:
…など、いろいろな動機があるに違いない。しかし、そのことを書き残し、だからこの曲は
このように演奏し、このように聴いてほしいと明らかにしてくれた場合はよいとして、そう
でない場合はどうしたらよいか。それなりの手がかりは求めるとしても、なおわからない多く
のクラシック曲の場合、これはもう想像・空想して聴くしか、手がないのではなかろうか。
空想の内容は、いろいろである。この作曲者はどんな人だったのか。いつ、どんなとき
に、どんな心境で、だれのために、どんな結果を予想しながら、どんな場所で作曲したのか…などと、聞こえてくる音楽を手がかりに、あれこれと想像してみる。すると、自分なり
に曲や作曲者の姿が何となく見えてくるのである。正しいかどうかは、もちろんわからない。しかし、そうした想像を繰返していると、クラシックが決して神によって創られたもので
はなく、同じ肉体をもち、悩みや苦しみもしたに違いない人間によって書かれたこと。ただ
理由もなく音を連ねただけでないことが、なんとなく納得できるようになるのである。感性
の上で、作曲家たちに近づく、とでもいうのであろうか。
演歌と比べるとよくわかる
クラシックがどんな音楽かを知ろうと思ったら、演歌(歌謡曲)と比べてみるとわかりや
すい、と私はよく思う。つまり演歌は「有節歌曲」といって、一節、二節、三節と同じ節が
何回か繰り返される形でつくられており、各々には私たちにわかりやすい日本語の歌詞がつ
いている。惚れた・はれた・別れた・涙した・雨がふる…と、すぐに情景が想像でき、喜
怒哀楽の気持が伝わってくる。理解するのに何ら困難がないうえに、現在ではカラオケとい
うものまでそろっている。何回か聴いて、覚えて、カラオケで歌ってみる。頭の中に定着す
るのに、時間はかからない。それに対しクラシックは、さきにも紹介したように大半が楽器だけによる曲である(もち
ろん演歌と対比できる歌曲もあるわけだが、歌詞はドイツ語やイタリア、フランス語など。
何を言っているのか、意味がわからない)。長い曲もあれば短い曲もあり、作曲者のことを
考えれば仕方ないが、一曲の中で山あり谷ありといろいろな変化がつけられている。有節歌
曲とは違うから、なにしろ簡単に覚えられない。いや、覚えたとしても、何を言おうとして
いるのかは依然としてわからない。響きや色彩感、雰囲気(情緒)などがあるだけである。
抽象的である。だから聞こえてきてすぐに内容のわかる演歌と比べると、どうしても「とっ
つきにくい」という印象がまっ先にくる。例えてみれば、庶民的で話しやすい下町娘に対す
る、ちょっと気どった山の手のお嬢さんといえようか。本当は友だちになりたいくせに、自
分からは話しかけようとしない。いかにも思わせぶりに私たちの前に現れては、その反応を
うかがったり楽しんでいるところがある。しかしそれなりにチャーミングなことも確かだか
ら、ケーキやコーヒーを好む都会派にはやはりどこか気になって仕方がない。できれば友だ
ちになりたいし、もっと知りたいと思う。
そういうクラシックと親しくなるには、何よりも演歌と同じ基準で眺めないことである。
一節、二節、三節と単純に繰返す音楽、歌詞を手がかりに聴く音楽ではなくて、音そのもの
の重なりや変化、響きによって何かを表わした音楽であること。抽象的ではあるけれどその33分、想像力や空想力をひろげ、さまざまな興味を刺激するユニークな音楽であると知ること分、である。そしてこちらから近づいて聴く音楽だと理解することだろう。
思わず笑ってしまう曲もある
好きな人はあれこれというけれど、演歌派や敬遠派の人にいわせると、やっぱり堅苦しい、というのがクラシックのイメージ。とっつきが悪いし、気軽に付き合うことができない。ロックを聴いたり落語を聴くような感覚で付き合うことができたら、同じ音楽としてそ
れほど敬遠することもないのにねなんて人がいるかもしれない。
実は、そんな感覚で楽しめる曲が、クラシックにはたくさんある。いくつか挙げてみる
と、例えばさかりのついた猫が呼び合うような愉快な二重唱曲、ロッシーニの「二匹の猫の
ふざけた二重唱」とか。蚤(のみ)に食われた痒さを笑いでごまかそうとする、ムソルグス
キーの歌曲「蚤の歌」。ロックよりももっと歯切れのよいリズムが魅力的な、(チャトウリ
アンの「剣の舞」。同じく軽快なズッペの「軽騎兵」序曲や、ロッシーニの「ウィリアムー
テル」序曲。くるくると自分の尻尾を追いかけて廻る犬を描いた、ユーモラスなショパンの
「小犬のワルツ」。終わりまでくるとまた繰り返すようになっていて、楽譜上では永遠に終
わらないヨ(ンーシュトラウスニ世の「常動曲」。やけになって鍵盤を叩くような、激しい打鍵が特徴のプロコフィエフの「戦争ソナタ」。「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「千か
らびた胎児」「梨の形をした三つの小品」といった風変わりな題名ばかりが並ぶ、エリック
ーサティの一連の作品。主題曲として使った映画の題名が、いつの間にか曲名になってし
まったショパンの「別れの曲」。淫らな感情を起させると、演奏が禁止されたこともあるス
クリャービンの交響曲第四番「法悦の詩」。列車の時刻表を歌詞にした合唱曲、クシェネク
の「サンタフェータイムテーブル」。二小節二六拍(一分あまり)の短いフレーズを、しつ
こくゆっくりと八四回(一五時間以上)も繰り返すサティのピアノ曲「ヴェクサシオン」
(まさに。いらだち”。いやがらせ”の意味)。演奏者が一人ずつ退場していってしまう。(
イドンの交響曲第四五番「告別」…。
そして、「構造的にもいろいろなものが」の項に登場した「音楽のサイコロ遊び」や
「四分三三秒」、「謝肉祭」、「おもちやの交響曲」「タイプライター」―などなど、ちょっ
と挙げただけでも結構いろいろな曲があるのに、びっくりさせられるだろう。実際に聴いて
みると、「へえ~つ、クラシックにもこんな曲が?」と、思わず笑ってしまうことがあるほ
少なくともこういう曲を聴いている限り、堅苦しいなどというイメージは沸いてこない。
膨大さゆえの出会いに、問題があるのかもしれない。
探る喜び・選ぶ楽しみ
クラシックとは、どんな音楽か。いくつかの項目に分けたこれまでの紹介で、多少の輪郭
はつかんでいただけたであろうか。仮りにばく然と読み流した場合でも、何となく感じても
らえたと思うのは、クラシックの世界の膨大さ・広大さではなかろうか。何といっても四
年。いろいろな国と地域にまたがる音楽である。登場したであろう作曲家も、おそらくは
数千人から一万人以上。彼らが残した作品も一万二万はおろか、少なくとも二、三万曲は
あるに違いない。それらのうち、私たちが知ることができるのはい辞典や関係書をひもとい
ても、せいぜい数千人。聴くことのできる作品も、何分のかの数万曲ぐらいであろう。
それさえも、いざ聴くとなれば大変な時間を必要とすることになる。オペラなど一作で三
時間以上というのが普通だし、交響曲や協奏曲なども平均して三分。長いもの(マーラー
やブルックナー)では、一圭一時間半に及ぶことが珍しくない。それらもたった一曲と数え
て、数万曲もあるわけである。端から聴いていったら、一体どれほどの時間がかかることだ
ろう。おそらく一生かかっても、すべてを聴き終えることはできないのではなかろうか。つ
まり、クラシックの世界はそれほど膨大であり、多彩な作品と作曲家を抱えているわけだ
が、しかしまた、そうだからこそ尽きせぬ楽しみ、喜びもあるのではなかろうか。何かをつくる、極めるという点からいえば、クラシックほど底なしでゴールの見えな
い世界は珍しいかもしれない。それはどんな作品、作曲家に興味をもっても、それが拠って
生まれた背景にはヨーロッパ数百年の歴史と民族・社会がからんでいるから、徹底すればそ
のことも含めたとらえ方をしなければならない。しかしそんなことをやっていたら、作品す
ら僅かなものしか聴けなくなってしまう。たくさん聴いて全体像をつかむのがいいか。ある
いは特定の作曲家や作品にのめり込んで、それらを極めるか。それとも気に入った時代や地
域の音楽を追求する。共通する原理を探り出す。作曲家の人間像を分析するかとまあ、
とらえ方はいろいろ。
しかしいずれにせよ、オールマイティにこなすことは、時間的にいっても無理なのであ
る。ということは、だれがどんな点に関心をもち、探り、選び、どんな聴き方・楽しみ方を
しようとも、それを否定したり文句を言える人はいないのである。これは一見戸惑いそうだ
けれど、自由でのびのびとしたいいことであり、発展のさせ方によってはだれもがたちまち
にマニアになれる。独自の世界に没頭できるそういうメリットもある音楽なのである。