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クラシック音楽の楽しみ方のいろいろ

クラシックーマニアといわれる人々

飽きずに親しんでいくためのコツ、こんなことを実行するとクラシックが身近になると勧 めた前章に続いて、こんどは音楽そのものの楽しみ方-いくつかある方法のそれぞれにつ いて、もう少し具体的にご案内をしてみよう。これまでの話からもおわかりのように、「ク ラシックを楽しむこと」とは、「飽きずにたくさん聴く」ことである。それも全体が膨大な ことから、やみくもに聴いていくよりは、「作曲家を中心に」とか「音楽史をたどって」と いったいくつかの方向から入った方が、わかりやすい。その各々の入り方が、すなわち楽し み方になると、ここまでは第三章の「いくつかの入り方を覚える」でもご紹介した。こ の章でふれていくのは、その具体的な内容である。 話が細分化していくために、「面倒だなあ」「そんなに分けてしまっては、部分的にしか楽 しめなくなるのでは?」と心配する人がいそうだから、あらかじめお断りしておこう。そういう心配は、実はまったくいらない。以下にご紹介するどの方向から聴き始めても、ある程度のめり込めば、他の方向からのことは自然と身につくものだからである。たまたま分類し てご紹介するのは、その方がわかりやすく入りやすいだろうという考えから。そしてまたク ラシックーマニアというのは、大抵これらのどれかに傾いているものだからである。 以前は(いや、もしかしたら今も)、こんな形でクラシックを勧める人はおらず、好きに なったら端から聴き、「あれもいい」「これもいい」と夢中になってレパートリーを増やすの が一般的であった。しかし音源や情報が氾濫するようになった現在は、むしろ彼らが行き着 いたり整理した結果を、前もって知っておいた方が先がわかって入りやすいのではないか、 と私は思う。これから始めようとする人、時間のない人は、とりあえずどれかを選んで早速 聴き始める、これを実行してみては、いかがであろうか。 なお、クラシックーマニアという表現をしたが、これは少しばかり熱狂的にのめり込んで いる人のことである。何となくうるさ型の鼻もちならない連中に思えなくもないが、しかし 彼らが何でも知っているかといえばそんなことはなく、実体はいろいろある楽しみ方のどれ かに強く傾いている。そのことについてだけ、やたら詳しい。だから前面に打ち出してい る、ということが多いようである。クラシックの幅広さからも、オールマイティな人はいな い。誰もが狙いをしぼればマニアになれる、ということである。

作曲家を中心に聴く

どんな名曲も、それを書いたのは人間であり作曲家である。作品にはもちろん惹かれるけ れど、それよりもまず作曲家に興味がある。同じ人間として「どうしてこのような曲が書け たのだろう?」「彼(女)は一体、どんな人物なのか?」そのことを知りたいし、そこから クラシックを聴き始めてみたいとまあ、こういう人がいたらお勧めしたいのが、「作曲 家を中心に聴く」楽しみ方である。確かに一つ、考えられる行き方ではある。 例えば、私の周囲にいる人のことだが、モーツァルトの伝記映画『アマデウス』を見た。 なるほど天才とは聞いていたが、あんな男だったのか。漠然と聞き流していたが、一つ本格 的に彼の作品を聴き直してやろうと、端から聴き始めた男がいる。数年前のモーツァル トーブームの時のことで、ケッヒエル番号による六二六曲を全曲聴くのだといきまいていた が、そろそろ終わりにさしかかっているのではなかろうか。 そうかと思うと、他人にあまり知られていない作曲家がいいといって、イギリス近代の ディーリアスとかヴォーン=ウィリアムズに夢中になっている人、ピアノが大好きだからと ショパンに心酔している若いお嬢さん、生き方に惹かれるとベートーヴェンばかり聴いてい る個性的な学生さんもいる。いずれも、作品はもちろん作曲家についても一家言をもつ、魅力的なクラシックーフアンたちである。 彼らのように作曲家を中心に聴いていく場合、さてその楽しみはどのように発展するだろ うかと想像すると、私にはこんな方向が浮かんでくる。まずオーソドックスには、心惹かれ た作曲家の作品を端から聴いてやろう。出来れば全曲を1というのが考えられるだろう。 彼がどんな作品を書いているのかは、音楽辞典(具体的には、井上和男編著『クラシック音 楽作品名辞典』=三省堂、『クラシックーレコード総目録』=音楽之友社、がお勧めだ)な どを見れば、一目瞭然。これに従って初めは代表的な名曲からスタートし、徐々に知られざ る作品へ、というのが一般的であろう。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン ら一部の作曲家については、「全集」という形で、全作品が市販されている。まとめて聴け るというわけである。 作品に対してそれほど夢中になれるのならば当然、次に興味をもつべきは、作曲家の人間 像かもしれない。生いたち、生涯、交友関係、恋愛、結婚、性格、考え方、エピソードなど いろいろ知りたくなるに違いない。そして「自分が興味をもった作曲家は、こんな人だった のだ」と、作品ともども実感することになるのではなかろうか。 この辺までは、おそらくだれでも進むだろうと想像ができるが、欲をいえばもう少し興味 を広げると、もっとおもしろい。つまり当の作曲家については、かなりのところまで知ったり想像できるようになったわけである。今度は彼をとりまく時代状況とか社会環境がどうで あったか。つまり歴史の中における彼の位置とか、もう一つ、彼と前後して現れた作曲家に はどんな大がいたかなどにまで広げると、その姿はもっと鮮明になってくるだろう。 それというのも、彼という作曲家は音楽史上に突然に現れたわけではなく、必ず前の時代 の影響を受け、その歴史的な必然の中から生まれたり生き残ったりしているからである。そ うでなければ、なぜモーツァルトやベートーヴェンのすぐあとにドビュッシーやラヴェルが 現れなかったか、あるいはストラヴィンスキーやショスタコーヴィチにならなかったか、そ の説明ができなくなる。 というわけで、たった一人の作曲家に惚れたといっても、彼のすべてを知りたいと思う と、追求すべきことは非常に多い。しかしまた、好きならばそのために時間を費やすのは楽 しいし、そうやっているといつの間にか、知識や興味もエスカレートする。この章の初め に、「どんな入り方をしても、のめり込めば他のことは自然に身につく」といったのは、そ ういう意味なのである。 もう一度まとめると、特定の作曲家に興味をもった場合、その人の作品、生涯などはまず 知ってみよう。それから影響を与えたり与えられた前後の作曲家たちについても、できるだ け知るようにする。さらにまた、時代の中における彼の位置や功績、とり囲む社会状況などにも目を向けたら、言うことなし。そのための資料である辞典や雑誌、カタログなどは、すべて身近なところにそろっているというのが、作曲家を中心にした楽しみ方である。

好きな楽器の名曲を追いかける

次は、「好きな楽器の名曲を追いかける」という楽しみ方。どんな名曲も、考えてみると 何らかの楽器によって演奏されるもの。そのことに気がつくと、独奏にしろ合奏にしろ、音 色や技術が気になってくるものである。かくいう私も実はピアノに目がなく、好きな曲が見 つかると、弾けもしないのに楽譜を手に入れる。あれこれと眺めては、鍵盤に手を置いてみ る。そんなことを繰り返したり、上手な人にひたすら憧れる。あるいは独自の愛好テープを つくるlといったことを飽きもせずにやっているが、こういう楽器への憧れは、多かれ少 なかれ誰にもあるのではなかろうか。 音楽を聴く場合にも、この楽器を中心に名曲を選ぶ・作曲家を選ぶというのがここでの楽 しみ方で、ひょっとすると一番入りやすい素直な方法だといえるかもしれない。この場合も またいくつかの発展のさせ方があるかと思うけれど、最もポピュラーなのは、気に入った楽 器を主役にした代表的な名曲を聴くことである。といってもこれには、協奏曲や室内楽曲の ようなものから交響曲、管弦楽曲の一部、独奏用の小品まで、さまざまなものがある。通常 やる人が多いのは、独奏曲としての小品から聴き始めて、協奏曲や室内楽曲などへと広げて いく方法で、特にピアノやヴァイオリン、ギターなどの場合は該当曲が多いせいもあって、 この方法は有効である。 それに対し、オーボエとかホルン、クラリネットのような楽器は小品が少なく、室内楽や 管弦楽で使われることが多い。こういう場合は、重奏やアンサンブルの中でいかに効果を発 揮するかという別の興味があり、特に多種の楽器が混じりあう管弦楽においては、部分的に アクセントを利かせた独奏楽器の使い方、スパイス的効果に魅せられる人も多いだろう。 例えば、サンーサーンスの「交響曲第三番」第二楽章で突然に響きわたるオルガンの音だ とか、シューベルト「未完成」交響曲の冒頭で、地底から湧くかのごとく唸り出すチェロと コントラバスの音。リストの「ピアノ協奏曲第一番」第三楽章で、鈴のような可憐な音を響 かせるトライアングル。ガーシュインの「ラプソデイーインーブルー」の冒頭で、消防車の サイレンのような音を出すクラリネット…などの例を挙げてみるとわかるが、効果的とい うだけでなく、それが無かったら現在あるような世界的な人気も、決して得られなかったの ではなかろうか。 以上のような点に魅せられるオーソドックスな楽しみがあるかと思うと、一方には近年人 気の「古楽器」に魅せられる、レトロ趣味の人たちも少なくない。例えばフランスープリュッヘン指揮の一八世紀オーケストラとか、二コラスーアーノンクール指揮ウィーンーコ ンツェントスームジクス、クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団、コ レギウムーアウレウム合奏団といった団体による演奏、などがそれである。彼らはバロック や古典派時代の作品を、当時そのままの楽器を使い、当時と同じ編成によって再現しようと いう、考えてみれば当り前のスタイルを売り物にしている。 それというのも、一九世紀以降、大抵の楽器は改良が重ねられて、当時とは音色も操作も まるで違うものになってしまった。そればかりでなくオーケストラの編成もまた肥大化し て、当時の二倍くらい。音量も響きも圧倒的に拡大華麗にはなったけれど、しかしそういう 形が果して本当の姿なのかどうか。もう一度当時の形に戻って考えてみたらと間う、レ トロ趣味というよりは、近代スタイルへの問題提起といった方がよい古楽器演奏の復活。聴 いてみるとこれが、何とも素朴で味わい深い響きと雰囲気をもっている。 さらにまた、こんな曲を集めて楽しんでいる人もいるらしい。それはどんな楽器にもいた であろう演奏の名手たち音楽史に名高い名演奏家が書いた作品を聴くのである。 ラフマニノフ、クライスラー、パデレフスキらは本人の演奏も残されていて興味深く、彼 ら名人たちが得意の楽器をどのようにとらえていたか。残された作品から探ろうとするこの 聴き方は、いかにもユニークでおもしろそうである。 もう一つ、さらに風変わりなところでは、「珍楽器・失われた楽器の名曲を聴く」という 楽しみ方もある。例えば、水を入れたグラスを並べて、その縁を濡れた指先でこする「グラ スー「モニカ」のための曲(モーツァルトの「アダージョー「長調K356」)とか、三 種類のスピーカーを使い、独特・多彩な音を出す電子鍵盤楽器「オンドーマルトノ」。これ を使ったメシアンの「トゥランガリラ交響曲」。リード式オルガンの一種「「モニウム」 を使った、ベルリオーズとサンーサーンスの「三つの小品」。あるいはかつて存在したとい われる「アルペジョーネ」「リラーオルガユザータ」「パン「ルモニコン」といった楽器のた めに書かれた作品シューベルトの「アルペジョーネーソナタ」、(イドンの「リラ協奏 曲」、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」-などが、それ。これもまた聴いてみる と、実に楽しい。

演奏(家)を聴き比べる

音楽というのは、楽譜の形で残されたものを音にして聴く。再現芸術”である。作曲者と 私たちとの間には、演奏者がいて、彼(女)らが音にしてくれなければ、どんな名曲も耳に することはできない。 ところがこの演奏はだれがやっても同じというのではなくて、極端にいえば十人十色。上 手に聞こえるものもあれば、下手に聞こえるものもある、という性質のもの。そのことか ら、作品や作曲家もいいけれど、むしろ演奏や演奏家にこだわって聴いてみたい。同じ曲な ら、いい演奏(家)で聴いたほうがいいからという人がおり、彼らがやっているのが 「演奏(家)を聴き比べる」楽しみ方である。いわれてみるとなるほど、これも一理あるお もしろい聴き方だ、と納得いくのではなかろうか。 実はマニア的なクラシックーファンが、主として傾いているのがこの楽しみ方。指揮者のカラヤンがどうしたとかブルーノーワルターがどうしたという、一見、難しそうな話をしている人 を見かけたことが、あなたもあるのではなかろう か。仮りに他の方向からクラシックに親しんだと しても、この演奏のよしあしの問題はどこかで一 度ぶつかる筈であるから、どんな点がポイントに なるか、そのことだけは知っておいたほうがよい かもしれない。 そもそもこうした聴き方の根本は、クラシック 作品の大半が作曲者に死なれてしまった古い曲、 楽譜しか残されていないことに始まっている。ど んな曲も作曲者の意思や感興がもとになっている わけだから、彼が生きていてくれたら、どのよう に演奏すべきか指針なり方法も尋ねることができ るだろ。 しかし現実には彼はいず、手がかりは楽譜だけである。この楽譜は、一見完全に見えて実はあいまい不完全なもの。例えばアレグロ(速 く)、アダージョ(ゆっくりと)、フォルテ(強く)、ピアノ(弱く)などの指示記号にして も、どのくらい速かったり遅かったり、どのくらい強かったり弱かったりするのか、実のと ころ正確にはわからない。演奏者たちは皆、このくらいであろうと解釈しながらやってみる けれど、結果としては一人として同じ形の演奏にはならない。そういう要素が速さや強弱以 外にもいろいろ(音色、表情、メリハリなど)と加わるわけだから、考えてみれば演奏とい うのは異なるのが当然で、そうならなかったらおかしい、ともいえるのである。 そんな演奏をとり上げてあれこれいう聴き方の、どこがおもしろいのかといえば、結局は 作曲者になり代って、作品のあるべき姿を見つけたいという欲求に行き着くのではなかろう か。といっても何が正しいのか、正確な答えがわからないだけに、何をいってもある意味で 主観的。演奏者たちもまた同じ考えから解釈し演奏しているわけだから、両者がうまくかみ 合う(つまり好みの演奏に出会う)ためには、聴き手もまた曲についてあれこれと調べたり 知ったりすることが必要となってくる。 具体的にこの聴き方(楽しみ方)を選んだ場合のポイントとしては、次のようなことを考 えてみるとよいのではなかろうか。田この曲は、どのように演奏されるのが作曲者の意図に かなっているのだろうか。一般に「名演奏」といわれるものがあるが、それは何を指していうのだろうか。圓自分好みの演奏を選べ、といわれたら、どれをとるか。 とまあ、ちょっと難しそうなことを挙げたが、わかりやすくいえば、こんなことであ る。学校時代の音楽の授業か何かで、ある曲を一人ずつ歌わせられた時のことを思い出して みるのである。誰が聴いてもまるで下手だったA君を別にして、力強く堂々と歌ったB君、 ゆっくりと情感を込めて歌ったC子ちゃん、の三人がいたとして、さてその採点をどうする か。B君もC子ちゃんも、ともに楽譜どおりなのに声や歌唱はまるで違う。しかしどちらも 捨てがたく、「いいなあ」と思わせるものなのである。 ここでの楽しみは、いわばこれと同じことをやっているわけで、数多く聴いていればだれ の耳にも働く「比較感覚」を重視しようという聴き方である。一見、「いい」とか「悪い」 とかケチをつける批評家的な聴き方ながら、この聴き方のいいところは、ともかく真剣に曲 と向かいあうことである。テンポの設定はどうかな?楽章ごとの変化のつけ方は?強弱 の程度は?独奏楽器の目立ち具合いや音色は?難技巧のこなし方は?全体的にみた曲 のつくり方は?迫力や雰囲気は?聴いてみて感じることは?―と、全神経を集中して 聴く。そこがいいのである。 しかしまた、そうしたチェックばかりでなく、とり上げられる曲がどんな事情で書かれた どんな曲なのか、作曲した人はどんな人だったのか、なども当然、評価すべき重要な要素として加える。こうしていろいろな考えのもとに、「あるべき作品の姿」を追う。そして聴き 比べる。名演奏とは何かを考える。自分の好みの演奏(家)を見つけるこれが「演奏 (家)を聴き比べる」という楽しみ方なのである。

珍曲・秘曲を集める

テレビや雑誌を見ていると、時にギョッとするような変わったことを趣味にしている人を 見かけることがある。音楽だけにしぼっても、例えばヴァイオリンを使って会話をするよう な音を出せる人とか、人参・きゅうり・なすなどの野菜を楽器にして演奏する人、陶器には め込んだスピーカー・ボックスで音楽を聴いている人、燃料用の木炭で木琴をつくった人、 四角や八角の風変りなヴァイオリン、チェロを作った人…などいろいろな人がいるが、ク ラシック曲についても、「だれもが聴くような曲では、おもしろくない。ちょっと変った、 隠れた作品ばかりを追いかけてやろう」という人がいても、おかしくはない。なぜなら、実 際にそういう曲がいくらもあり、歴史だジャンルだと難しいことをいわずに楽しめるこの行 き方こそは、個性を売り物にするクラシックにはピッタリな気がするからである。「珍曲・ 秘曲を集める」楽しみ方-これもまた、お勧めしたいユニークな聴き方の一つである。 一体、どんな曲があるのか。ここに並べてみようと思ったら、もうすでに第二章(「構造的にもいろいろなものが」「思わず笑ってしまう曲もある」)で、かなりのところ提示してしまったことに気がついた。大体はそちらを再読していただいて、ここではそれ らをわかりやすく整理・補足して、全体的な眺めとして把握してみることにしよう。 まず「珍曲・秘曲」という形容だが、これは具体的にいうと曲の構造とか、成立事情、外 見、内容、主人公、作曲者などに関してユニークな特徴をもつ曲のことである。 例えば、ゲージの「四分三三秒」やシューマンの「謝肉祭」、モーツァルトの「音楽の冗 談」「音楽のサイコロ遊び」、ガーシュインの「ラプソディーインーブルー」などは、「構造 的に変っているもの」に分類できるだろうし、シューベルトの「未完成」交響曲やショパン の「別れの曲」などは、「成立事情からくる珍曲」に属するかもしれない。また題名が変 わっているサティのピアノ曲は、明らかに「外見的に風変わり」だし、ベートーヴェンや マーラーの声楽入り交響曲は、「内容的に変わっている」代表といえるだろう。 既出の曲については、そんなふうに整理して聴いていってもらうとして、さてもう少しこ の項に加えてみたい曲はないかと探してみると卜声楽曲なのに歌詞は「アー」という母音 だけで歌われるラフマニノフの「ヴォカリーズ」とか、ラヴェルの「「バネラ形式のヴォカ リーズ」、ドビュッシーの「夜想曲」。オーケストラによって蒸気機関車の発進から最高速状 態までをリアルに描く、オネゲルの「パシフィックニ三こ。歌詞がラテン語の語呂合わせになっていて、ドイツ語にすると「尻をなめろ」と聞こえるモーツァルトのカノン「戦記 を読むのは難しい」K五九九(いずれも内容的に変っている)など。 またユニークなエピソードによって有名になった曲として、べートーヴェンのピアノーソ ナタ第一四番「月光」や、ヘンデルの「水上の音楽」、タルティーニの「悪魔のトリル」、 の「ゴルトベルク変奏曲」、ビゼーの「カルメン」の中の「「バネラ」、クライスラー の一連のヴァイオリン小品ほか。 曲中に風変りな主人公が登場するものとして、ショパンの「小犬のワルツ」や、D・スカ ルラッティの「猫のフーガ」、サンーサーンスの「動物の謝肉祭」、プロコフィエフの「ピー ターと狼」、ドビュッシーの「夜想曲」、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」、シュ ーベルトの歌曲「魔王」、ムソルグスキーの交響詩「禿山の一夜」、ベルリオーズの「幻想交 響曲」、ドリーブのバレエ音楽「コッペリア」など。 作曲者がユニークといえば、ポーランドの首相になったパデレフスキーの「メヌエッ ト」。稀少価値ともいえる女流作曲家-バダジェフスカの「乙女の祈り」や、パラダイス の「シチリア舞曲」。クラシックとポピュラーの両分野で活躍したガーシュインの作品。自 作に他人の名をつけて六歳まで澄まして発表していたクライスラーのヴァイオリン小品。 殺人を犯した作曲家ジェズアルドの一連の「マドリガル」。たった一曲で歴史に名を残しているベイボダの「波涛を越えて」ほか。とまあ、書き出したらキリがないほど、おもしろい曲はいくらでも出てくる。実は私 もそういう曲が大好きで、各々について詳しくご案内しているので、興味をもった方は そちらもぜひ読んでいただきたいと思う。

ひと味違う演奏を楽しむ

珍しい曲があるのなら当然、「珍しい演奏」というのもあるのではないか、と考える人が いそうだが、その通り、再現芸術であるクラシックには、演奏の点から「おや?」「おや、 まあ」「これは、おもしろい」と思わせるものが、結構ある。これらを追いかける「ひ と味違った演奏を楽しむ」方法もまた、興味をもつ人がいるかもしれない。 さきにもふれたが、クラシック曲の演奏は、作曲家たちが残した楽譜を、そのまゝ再現す るのが基本である。しかしそれ以外の演奏がないかというと決してそんなことはなく、原曲 のスタイルを生かしつつ楽器を変え、規模を変え。響きやムードを変えたもの。あるいは ジャズやポピュラーのようにリズムを変え、大胆な編曲を施したものなど、実にさまざまな 演奏を見つけることができる。それも最近はポピュラー畑の人よりも、お堅い筈のクラシック演奏家がやっているものが、結構多くなってきた。クラシックと聞くとつい構えてしまう 人も、ちょっと手を加えるとこんなに聴きやすいものなのかと気づく編曲もの。どんなもの があるか、以下に簡単にまとめてみよう。 まず、ピアノの独奏曲を大編成の管弦楽に直したもの、あるいはその逆、などはどうだろ う。ムソルグスキーの「展覧会の絵」(原曲ピアノ版)の、ラヴェルによる管弦楽版。ある いはラヴェルの「なき王女のためのパヴァーヌ」の自身による管弦楽用編曲。リストによる ベートーヴェンの交響曲(全曲)のピアノ版。同じくベルリオーズの「幻想交響曲」。ワー グナーの「タンホイザー」序曲ピアノ版などがそうだが、これはよく探すと驚くほどたくさ んある。特にリストに注目すべき編曲が多い。 そのほか、合唱曲を管弦楽化したヨ(ンーシュトラウスの「美しく青きドナウ」、ヴィ ヴァルデイ「ヴァイオリン協奏曲」の、によるチェンバロ協奏曲用編曲。の 「管弦楽組曲第三番」第二曲の、ウィルヘルミによるヴァイオリン用編曲「G線上のアリ ア」-などもよく知られている。 協奏曲といえば、と同様、主役の楽器を代えたものとして、ベートーヴェンの唯一 の「ヴァイオリン協奏曲二長調」をピアノ協奏曲に直しているのも有名である。また編曲者 の知名度にこだわらなければ、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」をブルー卜でやったものや、ヴィヴァルディの「四季」をオルガン一台でやったものや、ギター一二重 奏でやったもの、ブラスでやったもの、などもあり、聴いてみると実に楽しい。 一方、「G線上のアリア」のように、大曲の一部が編曲によって有名になったものには、 チャイコフスキーの「アンダンテーカンタービレ」(弦楽四重奏曲第一番の第二楽章)や、 バーバーの「弦楽のためのアダージョ」(同)、ボロディンの「弦楽のためのノクターン」 (同第二番第三楽章)、パッヘルベルの「カノン」、アルビノーニの「アダージョ」、ボッケ リーニの「メヌエット」、(イドンの「セレナード」…などがある。 以上はクラシック的な、いわばオーソドックスな編曲ものだが、そのほかにも「クラシッ ク歌手たちが歌うポピュラー・ソング(あるいはその逆)」、「ジャズふうのクラシック」「ポ ピュラーふうの編曲もの」という、くだけた編曲ものがあるのも、私たちには嬉しい。 「クラシック歌手たちが歌う」は、最近人気の三大テノール(ドミンゴ、パヴアロッ ティ、カレーラス)が歌う、アメリカンーポップスやラテンーナンバー、ミュージカルーソ ングがそうだし、アメリング、テーカナワ、ヴンダーリッヒら多くの歌手がとり上げている 同じようなナンバーが、そう。美声と声量たっぷりな歌唱は、いかにものびのびとくつろい でいて魅力的である。 一方、その逆にポピュラー・シンガーがクラシック曲に挑戦したものは、前者ほど多くは ないものの、あることはある。女優としても人気のあるバーバラーストライサンドの歌った ドビュッシーやフォーレの歌曲、ギリシャの歌手ナナームスクーリの歌った「アヴェーマリ ア」や「愛の喜び」、アメリカの男性歌手アンディーウイリアムスがクラシック曲に歌詞を つけて歌う「エリーゼのために」「舟歌」などだが、これもまたクラシック歌手にない、独 特の味わいが楽しい。 「ジャズふうのクラシック」も、古くからいろいろなものがある。例えば。ウィーンの三羽 烏として評判のあったピアニスト、フリードリッヒーグルダは自らジャズ曲を作曲・演奏 して今も人気だし、名ヴァイオリュスト、メニューヒンも好んでジャズを演奏している。わ が国でも、ラリー・コリェルと組んでユニークな「四季」を録音した山下和仁(ギター)と か、ジャズふうの演奏に個性を発揮する宮本文昭(オーボエ)、フリー・ジャズと呼ばれる 型破りな演奏で人気の山下洋輔(ピアノ)のような人がおり、これらに古くからのオイゲン ーキケロ(ピアノ)やシャッタールーシェ、ジョンールイスなどを加えると、ジャズ風クラ シックもいろいろな演奏が楽しめて、見逃すことができない。 「ポピュラーふうの編曲もの」というのは、ジャズのようにリズム一辺倒でなく、メロディ や(モニーにも富んだ、イージー・リスニングムード風の演奏のことである。カーメンー キャバレロ(ピアノ)、ポールーモーリア、マントヴァーニ、アルフレッドー(ウゼ、フラ79ンクープウルセル(楽団)…などの名を聞けば、思いあたる人が多いだろう。これもまた80 くつろいで楽しめる、万人向きの演奏である。 そのほか、クラシック曲を材料にしてさまざまないたずらや脱線ぶりを楽しませる「ホフ ナング音楽祭」や「P・D・Q・バッハ(冗談音楽という)、笛とアコーディオンだけで交 響曲から小品までを演奏してみせる「ケンブリッジーバスカーズ」、どんな曲でもスキャッ トで聴かせる「スウィングルーシンガーズ」、富田勲氏のシンセサイザー・クラシック… などなど、ひと味違った演奏は探してみるといくらでも見つかる。レコードーカタログを手 がかりに、こんな演奏を集めてみるのもおもしろいのではなかろうか。気分に合わせて聴く 「アダージョーカラヤン」というCDがヒットして以来、アダージョ(ゆっくりと、という 音楽用語)で書かれた曲が大流行である。私のところにもそういうCDの企画や解説がいく つか舞い込んだが、万事があわただしい現代人の毎日。ゆったりとした音楽を求める人が、 それだけ多いということだろう。 そのことから思うのだが、クラシックーフアンの中には、これまでのジャンルだ作曲家だ という近づき方でなく、そのときそのときの心情、つまり日常の気分に合わせて聴いている人が、案外多いのではなかろうか。分析的、知識的な聴き方はもちろん満足度が大きいが、 それとは関係なく、日常ぶつかることになるさまざまな気分がうれしい、悲しい、いらい らする、楽しい、淋しい、などに合わせて、自分好みの曲を自由に聴く。それはそれで 理屈によらない素直な付き合いとして、一つ考えられる方法かもしれない。ここではその 「気分に合わせて聴く」楽しみ方について、少し考えてみよう。 例えば私の場合だが、よく晴れた休日の朝とか特別な予定のないのんびりとした午後な ど、好きなコーヒーで一服やっていると、もう一つふさわしい音楽が聴きたくなったりす る。さて何がいいかなあとレコードを探すと、のどかな気分に合いそうなメンデルス ゾーンの「無言歌集」とか、モーツァルトの「二管楽器のセレナード」などが見つかる。 それらを流しながら、真剣に耳を傾けるのでもなく、本を読んだりタバコを吸ったり、家族 とおしゃべりをしたり…。あるいは夜になり、一日の仕事を終えると、楽しみであるビー ルを一杯モーツァルトの「フルートとハープの協奏曲」やテレマンの「幻想曲」を聴き ながら、くつろいで飲む。ささやかながらも幸せを感じる、大好きなひとときである。 こういう聴き方をしている人、世の中にはたくさんいるような気がするが、ポイントは知 識や理屈でなく、曲のムードや感じがそのときの気分に合うかどうか、そのことだけを考え ればよいという気楽さである。したがって、さきにご紹介したジャンルや歴史、作曲家を中心にした方法などが面倒だという人も、気軽に始められるのは間違いないだろう。 ただし、「気分しだい」というのは、それによって「聴いたり聴かなかったり」という中 途半端なことにもなりかねないから、徹底しようと思ったら、前もってどんな気分のときに 聴くか。そのケースをあれこれと考えておくとよいかもしれない。例えば朝・昼・晩のさま ざまな気分。春夏秋冬の異なった気分。旅をしたいなあと思ったとき、恋をしたとき、 幸せだなあと感じたとき、昔が懐かしくなったとき、いらいらしたとき、大声を出した いとき、孤独に陥ったとき、憂鬱なとき、悲しいことに出会ったとき、酒を飲みたいとき、 食事のとき、思索するとき、祈りたい気分のとき、季節や自然に引かれたとき…などな ど。どんなときにもふさわしい曲を見つけてやるぞと覚悟を決めるのである。 さて曲目の方はどうするかというと、まず日頃聴きなじんでいる曲をあれこれと思い浮か べ、各々どんなときに合うか、適当に割りふってみる。といっても頭の中だけでは混乱しそ うだから、できれば手帳かノートに書いてみるとよいだろう。難しく考えず、あくまでも思 いつきでよい。同じ曲がいろいろな時に登場しても気にしないことにする。 ひと通り当てはめてみると、当然、該当曲が思いつかないときや少ないときが出てくるけ れど、それらについてはラジオやレコード、演奏会などで耳にした曲を手がかりに、少しず つ埋めていく。こうしてある程度習慣づけてやっていくと、いつの間にかレパートリーが充実して、どんなときにもふさわしい曲目を引き出すことができるようになる。すなわち日常 生活に定着することになるだろう、というのが「気分に合わせて聴く」楽しみ方である。メ モするばかりでなく、実際に曲を聴くことが大事なのはもちろんである

小品を中心に聴く

気楽な聴き方のご紹介ついでに、もう一つ、肩のこらないクラシックの楽しみ方を提案し てみよう。それは覚えにくく飽きてしまいそうな大曲を避け、ポップス並みに気楽な小曲 ばかりを聴くという方法である。 例えば「エリーゼのために」「乙女の祈り」「トロイメライ」「トルコ行進曲」…といっ た曲名を挙げれば見当がつく?いや、それでわからない人もメロディーを耳にすれば間違 いなく「聴いたことがある」となりそうな、いろいろなジャンルからの小品である。 最近は、音楽界はどちらかといえば大曲志向。そういう小曲に関心のある人は少なくなっ ているようだが、かつてのクラシックーフアンは大抵そういう小品から聴き始め、やがて交 響曲や協奏曲などの大曲へと親しんでいったものであった。というのも、レコードがまだS P盤(落すと割れる)の時代。片面五分くらいしか収録できず、都合よく収まる小曲がまず好まれたからである。 LP、CDの時代へと進み、冷遇されていた大曲が注目されるようになると、今度はこれ ら小曲がしだいに忘れられカタログ上でも寂しくなって現在にいたっているが、しかしよく 探せば、まだかなりの音源がいたる所に眠っている。その気になって集めてみると、これは これで一つのジャンルを形成するほどに多くの曲が出てくる筈。それらをそろえて聴いてみ るのも楽しいのではなかろうか。 小品の魅力は、何といってもその親しみやすいメロディーである。歌曲などの場合は、一 節二節と繰り返す有節歌曲も多いから、覚えて口ずさむのもそれほど難しくなく、明暗さま ざまな曲調をもつ器楽曲も、それぞれに特徴のある美しいメロディーが何よりもまず心をと らえる。そしてまた短いから、形式だ歴史だと分析的に聴くことを要求されないのも、気楽 でいい。せいぜい曲名と作曲者ぐらいを覚える。あるいは何の楽器でやっているかぐらいが わかれば、それで充分だろう。飽きるどころか、場合によってはもの足りなく思うこともあ るポップス並みの気軽さと楽しさそれが魅力なのである。 具体的な曲目は第七章にまとめるとして、全体的にどんな曲が含まれるか、概略として眺 めてみると、倒さきの「エリーゼのために」をはじめとするピアノの小曲群。バッハ、ヘン デルらのチェンバロ曲から、古典・ロマン派時代の組曲に含まれるものまで、幅広く多彩。好まれたからである。 LP、CDの時代へと進み、冷遇されていた大曲が注目されるようになると、今度はこれ ら小曲がしだいに忘れられカタログ上でも寂しくなって現在にいたっているが、しかしよく 探せば、まだかなりの音源がいたる所に眠っている。その気になって集めてみると、これは これで一つのジャンルを形成するほどに多くの曲が出てくる筈。それらをそろえて聴いてみ るのも楽しいのではなかろうか。

コンサートヘ行く

あれこれとご紹介してきた「楽しみ方のいろいろ」。実は、いずれもあることを前提にし た話だったのだが、お気付きであろうか。どれかを選んで始めてみるとわかる筈だが、それ はレコード(CD)やテープ、つまりナマ演奏によらない方法を前提にしてご案内していた のである。それというのも、音楽を楽しむといった場合、最も一般的なのはCDや放送な ど、ナマ演奏以外の手段であることが非常に多いからである。 考えてみれば、いろいろな楽器にちなむ曲、音楽史をたどれるような各時代の曲、埋もれ た人も含むさまざまな作曲家の曲、珍曲・秘曲…など、それらが自由に聴けるほど、果し てナマ演奏のコンサートが内容的に充実しているであろうか。というと、答えはノーであ る。確かに音楽ホールは増え、演奏会の数もひと頃よりは圧倒的に多くはなったけれど、よ く見ればとり上げられる曲目は一部も一部。有名曲こそ重複して聴けるものの、隠れた曲、 地味な曲などはなかなかとり上げてもらえない。仮りにとり上げても、人気の点から必ずし も人は集まらず、興行的には失敗することが多いからであろう。 しかし、音楽がCDなどでしか聴かれないとしたら、これはまた大いに困ったことなので ある。なぜなら、本来的に作品はナマ演奏で聴かれるために書かれたものだからである。複 製物として聴かれるために書かれたのではないのである。そうした事実は歴史を振り返れば 明らかであり、二世紀以後、マスメディアとしてレコード、ラジオがもたらした便利さ や普及の功績は認めるとしても、音楽そのものとの接し方については、直接に向かいあって 聴くナマ演奏の方がいいことは、だれに尋ねても否定する人はいないだろう。それにまた、レコード・CDにはナマ演奏とは違う独特の加工というのもある。知らずに 聴いているとそれが本物であるかのように錯覚し、実物に出会ったときにとんだ誤解をして しまうことも、ないとはいえないのである。 というわけで、デメリットもあるけれど、音楽に興味をもったら時々はコンサートへも 行ってみる。そしてレコードや放送では味わえない独特の魅力を満喫してみようと勧め るのが、最後の「コンサートへ行く」楽しみ方である。これについては第九章で詳しくご紹 介するとして、ここではそういう楽しみも一つある、ことを知っておいていただこう。
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