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クラシック音楽の鑑賞の手引き

クラシック音楽は、楽曲の構成、演奏のかたちや目的、また時代による形 式などで分類することができます。 そのかたちや特徴を知ることで、曲の流れがわかり、案内地図を手にした ように楽しく聴くことができるようになるでしょう。ここでは、名曲を例に とって、鑑賞のポイントを解説します。 ・題名の見方 クラシック音楽には、わかりやすい俗名や標題のついているものもありま すが、多くは楽曲のかたちだけが示されています。 ①この作曲家が5番目に作った交響曲。 ②第1楽章の調。そのほかの楽章は、理論上この調と関係のある調で作られています。 ③この作曲家の67番目の曲 ④題名。作曲家自身がつける場合と、覚えやすく親しみやすいよう、のち に考えられたものとがあります。「運命」は、のちにつけられた題名です。

楽章の見方

①第1楽章②アレグロ・コン・プリオ③八短調4分の2拍子 ②は、曲の速さ(47ページ参照)を指定しています。 ③は調、④は拍子(46ページ参照)を表しています。 これらの記号は楽譜につけられたもので、本来は聴く人ではなく、演奏す る人のためのものでした。「運命」が初演されたときのプログラムには、 『大交響曲(第6番)』とだけ記されています。これは、現在の第6番「田 園」が第5番として、同時に演奏されたからで、のちに番号が入れかわった のです。

リズム・メロディー・ハーモニー

音楽は3つの要素でできています。 このうちもっとも基礎となるものがリズムです。人が話したり歩いたりする とき、強弱や緩急がひとまとまりとなって、心地よい動きを感じることがあります。これがリズムの基本です。わかりやすい例では、馬が走るとき蹄から聞こえる3拍子のリズムがあります。これはギャロップと呼ばれ、舞踏音楽のリズムのひとつとなっています。メロディーは旋律のこと。音の高低(音朷と、リズムの要素である時間の長短を組み合わせたものです。私たち力陬う“歌”は、音楽の要素のなかのメロディーでできており、これにはリズムも含まれています。 そしてハーモニーは、複数の楽器や声が、同時に異なる音を鳴らすとき生まれるものです。ハ-モニーが、曲の主旋律るメロディーを飾ったり、伴奏したりして、旋律のみでは味わえない奥架い世界を立体的に演出します。ハーモニーの基礎は和音です。様会な和音が、明るく楽しい気分や、陰鬱で不安な状況などを、その響きで表すのです。状況などを、その響きで表すのです。状況などを、その響きで表すのです。

調

カラオケで歌うとき、自分の声に合わせて、音の高さを調節します。この 操作を「キーを変える」といいますが、調とは、この“キー”のことです。 西洋音楽には、7つの音から成る音階があり、これを基にして曲を作りま す。調とは、基になる音階の種類によって決まる、曲全体の音の高低のこと で、音階を始める音によって呼び方が変わります。

拍子

拍子は2拍子、3拍子、4拍子を基本にします。 2拍子は「イチ・二、イチ・二」と感じる、行進曲などに多い拍子です。 3拍子は「イチ・二・サン、イチ・二・サン」と感じる、ワルツなどの舞 曲に代表される拍子です。 4拍子は、「イチ・二・サン・シ」と感じるリズムで、クラシック音楽か らポピュラー音楽まで、もっともよく使われるものです。

交響曲

ベートーベン交響曲第5番八短調作品67「運命」 ザ・シンフォニーと呼ぶにふさわしい交響曲です。 繰り返し出てくる「タタタ・ターン」というリズムが、各楽章で変幻自在 な変化をみせます。 ベートーベンのほかの曲にもモチーフとしてしばしば登場するこのリズム は、最初の休符(’y)と、そのあと続く3つの音が、性急で緊迫したイメー ジを与え、のちに展開される、劇的で苦難に溢れる世界を予感させます。 ベートーベンの音楽世界に関してよく引き合いに出されるのが、ロマン・ ロランの世界に代表される「苦難を通じて歓喜にいたる」という言葉です 最初の旋律(動機と呼ばれる)で緊迫を予測させ、激しい展開をみたのち、 激情の余韻を残したまま第1楽章が終わります。

第2楽章アンダンテ・コン・モード変イ長調8分の3拍子

第1楽章から一転し、歌のメロディーを思わせる主題が、歩くほどのゆっ たりしたリズムで繰り広げられます。鑑賞する側もここでいったん、くつろ いだ気分になります。

第3楽章アレグロハ短調4分の3拍子

速いテンポで終始します。第1楽章の旋律は、ホルンによって下の楽譜の ように演奏されます。第1楽章の楽譜と比べても、リズムの同一陛がよくわ かるでしょう。

第3楽章ホルンの旋律

第4楽章アレグロハ長調4分の4拍子 第3楽章から切れ目なく続きます。ファンファーレのような意気揚会とし た第1主題で始まります。第1バイオリンが奏でる第2主題には、「タタ タ・ターン」のモチーフの変形(展開形と呼ばれる)が使われています。 途中で音が小さくなって、3拍子になり、第3楽章が回想されるかのよう に似た旋律が繰り返されます。第9番「合唱」にもみられるこの構成法は、 ベートーベンの作曲法の特徴のひとつです。 交響曲に限らず、楽曲のかたちを説明するときには、動機や主題、提示、 展開、再現など、音楽専門用語がよく使われます。 鑑賞するときは、「動機」「主題」は、その曲によく出てくる旋律やリズ ム、「提示」は、その旋律の基本形の演奏、「展開」は変形の演奏、「再現」 は基本形に戻った演奏、と覚えておけばよいでしょう。

協奏曲

ラフマニノフピアノ協奏曲第2番八短調作品18 20世紀のピアノ協奏曲の最高傑作といわれます。日本でもコマーシャル で多用され、人気の高い作品となりました。チャイコフスキーの系統をくむ ラフマニノフは、作曲家であるとともに偉大なピアニストで、この曲の叙情 性と旋律の美しさは、ともに彼の演奏技術に裏づけられたものといえます。 ・第1楽章モデラートハ短調2分の2拍子ソナタ形式 鐘の音を思わせるピアノの和音で始まり、やがてクラリネットと弦楽器が 主題を奏で、ピアノは悠然と伴奏をつとめます。ピアノに主題が移ってから は、華麗でめまぐるしい流れが繰り広げられます。 ・第2楽章アダージョ・ソステヌートホ長調4分の4拍子(2分の3 拍子を含む)3部形式 やさしく、ロマンティックな素晴らしい響き。弱音器で音を抑えた弦楽器 を背景に、管楽器が幻想的な旋律を展開します。

第3楽章アレグロ・スケルツアンドハ長調2分の2拍子ロンド形式

ピアノが駆けめぐるように旋律をつむぎ出します。モデラート(中くらい の速さ)のテンポで演奏される、温かな旋律は、ラフマニノフの最高傑作と いわれます。装飾的な主題が 変幻自在に繰り広げられ、豪決に終わります。

グリーグピアノ協奏曲第1番イ短調作品16

豪快な和音の連続で始まり、続いて上昇する旋律が、いかにもドラマティ ックな場面にぴったりなことから、これまで数多くの映画やテレビ・ドラマ に用いられました。“北欧のショパン”と呼ばれるほどのピアノの名手だったグリーグが残した 唯一のピアノ協奏曲です。ノルウェーの民謡を彷彿とさせる旋律や、北欧の 自然を思わせる雄大な曲想が、のびのびとした旋律のなかに力強く息づいて います。3楽章から成っており、第1楽章は、管弦楽の演奏を省き、ティン パニーの強打に続いてピアノが華会しく出だしを飾る思い切った構成が印象 的。また、第2楽章は、ノクターン(夜想曲)にも似た美しいメロディーが、 ロマンティックな世界を繰り広げます。

メンデルスゾーンバイオリン協奏曲ホ短調作品64

ブラームス、チャイコフスキーと並ぶ3大バイオリン・コンチェルト(協 奏曲)のひとつです。 3つの楽章が続けて演奏されます。ことに弦楽器に促されるように演奏さ れる第1楽章の旋律は、寂しげな情緒にあふれ、バイオリンの調べのうちで も、もっとも美しいもののひとつ。バイオリンの楽器の粋生が考慮された作 品です。

管弦楽曲

サン=サーンス組曲「動物の謝肉祭」 博学で、広範な知識をもつサン=サーンスは、動物をテーマとした幻想曲 を構想していました。そんな頃、謝肉祭の音楽会用に組曲を依頼され、フラ ンス風の風刺やユーモアをふんだんに盛り込んだ、斬新なアイディアに富む この組曲を作り上げました。 14の小曲が並び、それぞれにサン=サーンス自身が題名をつけています。

イオン王の行進

” 2台のピアノと弦楽。ライオンの咆哮が低弦のユニゾン(同じメロディー を合奏すること)で表現されます。

・第2曲“雄島と雌叫”

雄防はピアノと弦楽器、雌島はクラリネットで表されます。

・第3曲“野生のロバ”

2台のピアノが、ロバの跳躍を表現します。

・第4曲“亀”

フレンチ・カンカンでおなじみの「天国と地獄」(オッフェンバック作曲) の旋律が、これ以上遅くできないというテンポで演奏されます。

・第5曲“象”

ベルリオーズとメンデルスゾーンの曲から、軽やかな旋律を借り、これをピアノとコントラバスで、いかにも重たい動物を思わせるように演奏します。

・第6曲“カンガルー”

2台のピアノで、カンガルーが飛び跳ねる楡子を表します。

・第7曲“水族館”

ピアノのアルペジオが水の流れを表し、弦とフルートカ巧永ぐ魚を表現しま す。ハ-モニカ(または、チェレスタかグロッケン・シュピール)の音が、 水の煌めきを思わせます。

・第8曲“耳の長い登場人物”

ロバは愚かな人物の比喩。バイオリンがロバの珍妙な笑いを聴かせます。

・第9曲“森の奥のかっこう”

森の骨景のなかで、クラリネットがかっこうの鳴き声を奏でます。

・第10曲“大きな鳥かご”

小鳥たちの羽音は弦のトレモロ、飛び交う姿はフルートが奏でます。

・第11曲“ピアニスト

無能なピアニストは、動物にも等しいということでしょうか。

・第12曲“化石

自作の「死の舞踏」の骸骨の旋律から始まり、続いて4つのフランス民謡 が、最後にロッシーニの「セヴィリアの理髪師」のアリアが聴こえてきます。

・第13曲“白鳥”

チェロが奏でる旋律は、優雅でロマンティック。この組曲中もっとも有名 なフレーズです。

・第14曲終曲

ステージ挨拶さながらに、登場したすべての重力物が勢揃いします。

ロッシーニ歌劇「ウィリアム・テル」序曲

ウィリアム・テルを題材 としたオペラの序曲です。反骨精神に溢れたテルは、悪徳役人に無礼をはた らいて捕えられます。このとき、放免の条件として、`子どもの頭に乗せた小 さなリンゴを弓で射抜くことを要求され、名人技でこれを打ち落とすクライ マックス場面が有名です。 この歌劇の序曲は「夜明け」「嵐」「静寂」「スイス軍の行進」の4つの部 分からできており、それぞれの曲のテーマを聴き分ける楽しみがあります。 ロッシーニは、歌劇そのものよりも、“ロッシーニ・クレッシェンド”と呼 ばれる独特の強弱で痛快に盛り上がる序曲に人気があり、序曲だけを集めた CDも多くあります。

・交響詩

スメタナ連作交響詩「わが祖国」 ボヘミアの歴史と風土の素晴らしさを讃えた、民族的誇りともいえる楽曲 です。チェコのプラハで毎年行われる音楽祭「プラハの春」では、この交響 詩の全曲演奏で幕を開けるのが恒例になっており、開催日の5月12日はス メタナの命日に当たります。

・第1曲「高い城(ヴィシェフラッド)」

モルダウ川の畔に建つ中世ボヘミア王国の古城に住む、伝説の楽人ルミー ルが、愛の歌を歌います。ハープがルミールの竪琴を表します。

・第2曲「モルダウ」

滔会と流れる大河モルダウの情景を描いています。川辺では、農民たちが踊り、月の夜に妖精が姿をみせます。6曲中もっともよく知られたフレーズ で、しばしば単独で演奏されます。

・第3曲「シヤルカ」

シヤルカは、自分を裏切った恋人への復讐のため、男性を誘惑して殺戮す る、伝説の女王の名。神話的な闘いを描写した楽曲です。

・第4曲「ボヘミアの牧場と森から」

美しいボヘミアの風土と自然を賛美します。収穫の喜び、深い森に吹きわ たる風などの情景が広がります。

・第5曲「ターボル」

15世紀初頭の宗教戦争に題材をとった曲です。ターボルは、当時闘いの 本拠地となった町の名です。

・第6曲「ブラニーク」

ブラニークとは、祖国の危機を救う騎士たちが眠るといわれる山。独立へ の熱い思いが込められています。

室内楽曲

ハイドン弦楽四重奏曲第77番八長調作品76の3「皇帝」 ハイドンが作った、70曲以上の室内楽曲のなかで、もっともよく知られ る曲のひとつです。 この曲が「皇帝」と呼ばれるのは、ハイドンが晩年に訪れたイギリスで、 国歌の「ゴッド・セイブ・ザ・キング」を聴いて感動し、祖国オーストリア のために作曲した「皇帝讃歌」が、そのまま第2楽章の旋律となっているた めです。この曲は、第二次大戦のオーストリア併合のときに、歌詞をドイツ 語に変えて、ドイツの国歌とされました。

ブラームスクラリネット五重奏曲口短調作品口5

側圧にわたり、多くの室内楽曲を残したブラームス晩年の名作です。彼は、 優れたクラリネット奏者に出会って霊感を受け、この楽器のための作品をい くつか書きました。クラリネットの性能が飛躍的に進歩した時代であったこ とも、この名作を生み出す要因となっています。 この曲が書かれる約1世紀前にモーツァルトが作曲した、クラリネット五 重奏曲が、明るく華やかなウィーン的軽やかさに満ちているのとは対照的に、 落ち着いた静けさが、哀切な心情に深く訴えかけます。完成度を高めた晩年 の作曲技法と、内省的なブラームスの特徴を余すところなく表現した、ドイ ツ的な名作のひとつといえるでしょう。

独奏曲

ショパンのピアノ曲に関して、「この1曲」を推薦するのはあまり意味が ないかもしれません。ピアニストが演奏会でショパンをとり上げる場合も、 数曲が演奏されます。ピアニストにとって、「ショパン・コンクール」がひ とつの登竜門であるように、ショパンは永遠の課題であり、一作曲家を超え た意味深い存在です。これまで、ショパンを弾きこなしてきたピアニストは 数多くいます。CDやレコードで聴き比べてみるのもよいでしょう。 今世紀初めには、5大ピアニストーパデレフスキ、ゴドフスキ、バハマン、 ブゾーニ、ローゼンタールが登場しました。とくに、ポーランドの初代大統 領となったパデレフスキの豪決な演奏は素晴らしいものです。 20世紀半ばは、空前のピアノ・コンサートブームで、ショパンの故郷、 ポーランド出身のルビンシュタイン、アシュケナージをはじめ、ホロヴィッ ツ、リヒテル、シモン・バレール、フランスのコルトー、ドイツのバックハ ウス、ケンプ、オーストリアのピーター・ゼルキン、フリードリヒ・グルダ などが華やかに登場しました。 現在、コンサートで活躍するピアニストとしては、ポリーニ、指揮者とし ても名高いバレンボイム、マルタ・アルゲリッチ、日本の内田光子、ロシア 出身で神童といわれた、ブーニン、キーシンなどが知られています。

声楽曲

シューベルト歌曲集「冬の旅JD.9凵作品89 シューベルトの歌曲集のうち、最高の傑作といわれる作品です。詩は、 歌曲集「美しき水車小屋の娘」と同 様、ヴィルヘルム・ミューラーによ るものです。原曲はテハルですが、 現在はバス・バリトンで歌われます。 ある青年が、愛する女性に裏切ら れ傷心の旅先で出会う様会な情景を、 24曲の連作歌曲で描いています。 “泉に沿いてしげる菩提樹…”と歌 われる第5曲の「菩提樹」が、ドイツ民謡の素朴さを漂わせます。

シューマン歌曲集「詩人の恋」作品48

シューマンが、妻クララと結婚した年、溢れるように作曲された数多くの 歌曲。これはそのうち、ハインリッヒ・ハイネの16篇の詩に曲をつけたも のです。第1~6曲は愛の喜びを、第7~14曲は失恋の痛みを、最後の2 曲は過ぎた青春の日会を回顧する組み立てとなっています。

歌劇

ワーグナー楽劇「トリスタンとイゾルデ」 第7作目に当たるこの歌劇は、ワーグナーの最高傑作といわれています。 登場人物の心理的側面を、メロディーで表す手法(示導動機)や、切れ目な く続く無限旋律で独自の世界を繰り広げます。 舞台は中世ヨーロッパ、アイルランドの王女イソ勺レデと、彼女を后として 迎えるマルケ王に仕える騎士トリスタンとの報われぬ愛の物語です。 台本は、ヨーロッパに古くから伝わる伝説を、ワーグナー自身が脚色した もので、当時、実際に進行していた人妻との恋愛が、作品の内容に色濃く反 映されているといわれます。 ビゼー歌劇「カルメン」 ビゼーの手になる「カルメン」は、台詞入りのいわゆるコミック・オペラ として製作されました。今日のようなグランド・オペラ(バレエ入りのオペ ラ)となったのは、彼の没年、ウィーンの宮廷劇場で上演するのを機に友人 が手直ししてからのこと。近年は、オリジナル版の上演もみられます。華や かで起伏に富んだ前奏曲は大変有名で、単独で演奏されることもあります。 物語は19世紀初め、スペインのセヴィリヤ付近が舞台。激しい気性の煙 草工場の女工、カルメンと、伍長でありながらカルメンにそそのかされて密 輸入団に加わったドン・ホセ、そして闘牛士エスカミーリョの三角関係が悲劇的結末を遂げる物語です。 スペインらしい激情をはらむ人間関係と、「ハバネラ」に代表される、民 族音楽の調べが異国情緒をかき立てます。

教会音楽・宗教音楽

バッハ「マタイ受難曲BWV244」 新約聖書のマタイ福音書にもとづくオラトリオ(宗教的音楽劇)で、宗教 音楽のなかでも傑出した規模と構成、宗教生に富む作品です。 バッハが在籍していたライプツイヒの聖トーマス教会で、聖金曜日の祈祷 に際して演奏するため書かれた曲で、完成までに3年の歳月が費やされてい ます。オーケストラと混声合唱、児童合唱、ソプラノ、アルト、テハル、バス (またはノリトン)の独唱者によって演奏されます。構成は、イエスが捉え られるまでの第1部、イエスの安息を祈るまでの第2部に大きく分かれてお り、全体は78曲から成っています;、 ヘンデルオラトリオ「メサイア」 宗教的な題材ながら、教会ではなくオペラハウスで演奏されるものです。 日本でもクリスマスの頃よく耳にする、第2部42曲の「ハレルヤ・コーラ ス」が有名です。 全体は3部構成になっており、曲数は序曲を含めて全53曲。第1部は。 キリストの降誕と予言、第2部は、受難と贖罪、第3部が、復活と永遠の生命がテーマです。 全曲を演奏すると2時間20分も要 する曲ですが、ハレルヤ・コーラスの 場面で全員が起立するという不思議な 風習があり、今だに受け継がれていま す。これは、初演時に国王ジョージ2 世が、感動のあまり起立したためであるという逸話が有力ですが、実際は初演後数年経ってからの慣習のようです。旋律を得、それが発展して紀元7世紀頃にはグレゴリオ聖歌が確立しました。 グレゴリオ聖歌は、7世紀初めの初代ローマ教皇・グレゴリウス1世の名 にちなんでぃます。曲は全音階から成る「教会旋法」で作曲されており、そ の旋律は清らかで厳か。石造りの教会の高い天井に響きわたって余韻を残し、 なんともいえない厳粛な雰囲気を醸し出します。最近、心 話題になっています。 9世紀頃になると、ひとつの旋律を唱和するだけだった聖歌に、ハーモニ ーがつけられるようになり、以降、多声の聖歌が盛んに作曲されるようにな っていきます。 12世紀後半、グレゴリオ聖歌の一大中心地となる教会が、北フランスの パリに建設されました。シテ島の宝、ハトルダム大聖堂です。この教会で 活躍した作曲家たちが2声から3声、4声へとハーモニーを積み重ね、新し い形態の聖歌が生まれていきました。

町の音楽

11世紀から7回にわたって組織された十字軍の遠征は、多くの歌を生み 出しました。フランスではトルバドゥールやトルペール、ドイツでミンネゼ ンガーと呼ばれる、音楽を奏で詩を吟ずる芸人たちの登場です。 初期の騎士歌人たちは、貴族や騎士など、文学や音楽に関する教育を受け た人会がほとんどでしたが、次第に、音楽職人がその演奏家となりました。 恋愛の歌などに名作を残した騎士たちは、売れっ子作家として名を馳せてい たに違いありません。 この頃は、まさに町に、人会に、歌がわき上がった時代であり、酒場や広 場では喉に自信のある人たちが、日常の出来事や社会風刺に節をつけ、喝采を浴びていたのでした。吟遊詩人と呼ばれる旅芸人が、自由な風の吹き始め た港町などを流して歩くようになったのです。14世紀にはいると、ヨーロッパ中にペストが蔓延。イギリスとフランス のあいだで戦われた百年戦争をはじめ、宗教裁判、魔女狩りなど、暗黒の中 僕と呼ばれる時代を迎えます。しかし、音楽は多大な慰めとして人会のあい だに浸透し、フランスでは世俗歌曲のシャンソンが生まれ、教会捏楽にもバ ラードやロンドと呼ばれる定形のある歌曲が生まれました。

人間讃歌、ルネサンスの音楽

中世の時代が終わりに近づく14世紀頃から、ギリシアやローマ時代の白 山で闊達な人間観に倣う、文芸復興運動が起こります。いわずと知れたルネ サンスです。 レオナルド・ダ・ピンチやミケランジェロをはじめとする、優れた芸術家 を生んだこの時代、音楽は、フランス東部のブルゴーニュ地方と、北フラン スからベルギーにかけてのフランドル地方がその中心地となりました。 この時代の幕を開けたのは、フランドル地方に広大な領土を有し、15世 紀のヨーロッパで強大な勢力を誇ったブルゴーニュ公国です。この地に優れ た芸術家や宮廷音楽家たちが集まり“中世の秋”と讃えられる文化の爛熟期 を迎えました。 同時期、音楽に大きな影響を与えたもうひとつの事件が、宗教改革です。 ドイツに生まれたマルチン・ルター(1483~1546)は、あたかも集金機関 のようになり下がった教会に異を唱え、「聖書の教えに立ち戻り、信者ひと りひとりに平等な信仰の機会を与えよう」と立ち上がりました。彼は、まず 聖書を難解なラテン語から自国のドイツ語に翻訳し、聖職者しか歌うことの 許されなかった聖歌を、一般の人会に開放しようと試みました。 ルターは、宗教改革者であるとともに、才能溢れた音楽家でもありました。 より歌いやすく親しみやすい曲をとり入れながら、さらに自らも作曲をしま した。誰にでも覚えられ、歌いやすく、しかも美しいコーラスをとり入れた 「賛美歌」を数多く作りましたが、これらは、ドイツ・コラールと呼ばれま した。 ルターの運動にカソリック側の音楽家も影響を受け、信仰心を重視する音 楽家パレストリーナは、宗教的味わいの深い音楽を作り上げました。 ルネサンス期の音楽は、歴史上、初めて人会に官能的な喜びをもたらした 音楽だったといわれます。作曲技法の進歩と、人間的な情緒の発露を許す時 代の風向きとが融合し、人の心に深くしみわたる音楽が生まれたのです。 宗教改革が音楽を先導した感のあるルネサンス後期は、フランスを中心に 踊りが大変な人気を呼んだ時代でもありました。宮廷ばかりでなく、市民や 晨民たちのあいだでも、輪になって踊るものや男女がペアになって踊るもの など様会な舞踊が流行し、これを伴奏をする舞曲が数多く生まれています。 こうして音楽は、人会の生活の喜びと深く結びっきながら、クラシック音 楽の最盛期へと向かうのです。

バロック音楽

通奏低音の登場と楽器による演奏の始まり 17世紀から18世紀の半ばにいたる時代をバロック時代と呼び、この時代 の音楽をバロック音楽と呼んでぃます。バロックは、ポルトガル語で“歪ん だ真珠”という意味。装飾過多気味な建築様式や美術の傾向を嘲って、この 呼称が生まれたといわれています。ヨーロッパでは、バロックを悪趣味なも のと評価した時期があり、しばらくのあいだ、この時代の芸術も音楽も忘れ 去られていました。 バロックが再発見され、再評価されたのは、19世紀になってからですが、 この期間、音楽は形式的にも技術的にも大きな発展をみせます。 第一にあげられるのは、楽器の進歩でしょう。バイオリンやピアノといっ た、クラシック音楽の演奏に欠かせない楽器は、この時代にほぼその原型を 完成させます。楽器の進歩は、そのまま作曲の可能性を広げ、それまで、歌 や踊りの伴奏としか捉えられなかった楽器演奏が独立しました。 もうひとつの画期的な出来事は、オペラの誕生です。ギリシア時代から常 に劇とともにあった音楽は、この時期、イタリアにおいて、最初から最後ま で音楽で構成される劇-オペラとして一分野を確立させます。オペラは歌曲 の発展に貢献したばかりでなく、前奏曲や、間奏など、楽器だけの演奏によ る高度なアンサンブル(合奏)を培ったとされています。 大規模で、劇的、また華やか。大げさなほどに情緒や感4青の高まりを誇張 してみせたバロック時代の音楽は、それ以前までの、各声部のバランスを重 んじ、均等に重なり合うように構成されていた音楽の形式に別れを告げ、声 高に主張し、大げさに振る舞う主役を配することになります。主役は一番上の声部に割り当てられました。主役を強調するためには、下の声部は伴奏に回されることとなります。このとき、低音のパートを受けも ったのが、ヴィオラ・ダ・カンパという弦楽器やピアノの原型となったチェ ンバロなどでした。バロック音楽が荘重で威厳のある響きを湛えるのは、こ れらの低音声部が、曲全体に一貫して流れているためです。この低音声部を、 “通奏低音”と呼び、その響きがバロック音楽の特徴とされています。

バロックの時代と作曲家たち

ルネサンスで芸術的な意識の花開いたヨーロッパでは、各地に新しい思想 や建築様式、音楽を待ち望む態勢が出来上がっていました。イタリア、フラ ンス、イギリス、ドイツ、オーストリアなどでは、国民陛や風土に根づいた 世俗の音楽も盛んになり、急速に進歩した楽器が、庶民のあいだにも行きわ たるようになっていきます。

イタリア

バロック音楽は、イタリアから広がりました。この音楽の特徴である、通 奏低音を伴奏にとり入れるかたちは、“モノディ”と呼ばれる歌曲から始ま りました。独唱をそのまま台詞として用いた音楽劇が盛んになり、オペラが 形成されていきます。 最初のオペラは、16世紀の終わり頃、フィレンツェで上演されました。 貿易と毛織物工業で莫大な富を築いたフィレンツェ共和国には、当時、多く の芸術家が、貴族や大商人の屋敷でサロンを作り、花の都と呼ばれるにふさ わしい香り高い文化を誇っていました。こうしたなか、音楽史上、画期的と されるモンテベルディの歌劇「オルフェオ」が誕生しました。この作品が画 期的なのは、初めてオーケストラらしい楽譜の体裁をとっている点にありま す。20種類にのぼる様会な楽器が大きく2つのパートに分けられ、一方が リズムとハーモニーを主とする伴奏パートに、もう一方がメロディーとその装飾を担当するソロパートになっています。この分業的な合奏のかたちは、 以降、バロック音楽の基本的なスタイルとして定着し、さらにオーケストラ の個会の楽器の特徴を生かした役割分業、ひいては幾重にも重なる音世界の 構築の基礎となったのです。 “マントバの詩人”と呼ばれたクラウディオ・モンテベルディ(1567~1643) は、北イタリアのクレモナで生まれ、マントバの宮廷やサン・マルコ大聖堂 の楽長として活躍しました。オペラのほか、教会音楽も多く手がけています。 オペラはその後、ベネチア、ナポリとその拠点を移し、さらにフランスや オーストリア、イギリス、ドイツ、遠くロシアへと広がっていきました。イ タリアで発展したバロック音楽は、オペラのほか、宮廷などの室内で演奏さ れた独唱歌曲や、室内カンタータやオラトリオなどがあります。室内カンタ ータの代表的な作曲家には、ヘンデルと音楽のテクニックを競ったといわれ る、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660~1725)がいます。 オラトリオは、旧約聖書など宗教的な素材を歌で物語る宗教音楽劇です。 いずれも、歌をメインとした音楽ですが、これまでの楽器と比べ格段に音が 美しく、ボリュームが出せ、さらに演奏者の感青をこめられる楽器であるバ イオリンが登場して、楽器だけのアンサンブルも盛んに作曲されるようにな りました。ソナタと呼ばれる室内楽曲が登場するのは17世紀のこと。3人 ないしは4人で演奏されるこの分野の曲では、ボローニャやローマで活躍し たコレルリ(1653~1713)が知られています。 イタリアのバロック音楽家で忘れてはならないのが、「四季」を作曲した アントユオ・ビバルディ(1678~1741)でしょう。朝のさわやかな時間に聴 く「春」の楽章は、誰の耳にも心地よく響きます。ビバルディはベネチア生 まれ、25才で司祭となり、サン・マルコ大聖堂のバイオリュストとして活 躍した後、女子や孤児を集めた音楽院の楽長を務めました。毎週行われる音楽院の発表演奏会で彼の作品は大人気を呼び、「四季」をはじめとするたく さんのコンチェルトが生まれました。バッハにも大きな影響を与えた彼は、 器楽曲のほか、歌劇や宗教曲にも多くの佳作を残しています。

フランス

バロック時代のフランスは、絶対王朝のもとにありました。したがって、 音楽も強大な権力を握る国王の宮廷を中心に発展します。 17世紀前半、ルイ13世の時代には、フランス中で人気を呼んでぃた、踊 りを中心とする芸術が多数生まれ、バレエ・ド・クール(宮廷バレエ)が盛 んに行われました。パントマイムや劇の進行を説明するナレーションを含み、 これが、今日のバレエの原型になっています。当時、貴族たちも踊りに加わ り、やがて年に一度は国王さえも登場することとなりました。ベルサイユ宮 殿を建設したルイ14世が「太陽王」と呼ばれたのは、1653年の「夜のバレ エ」で、彼が闇を払う太陽の王に扮したからだといわれます。 この頃、フランスの宮廷で活躍した音楽家は、イタリアのフィレンツェか らやってきたシャン・バティスト・リュリ(1632~1687)でした。ルイ14世 に仕えた彼は、宮廷随一の音楽家となって君臨し、フランス歌劇やコメデ ィ・バレエと呼ばれる音楽劇の作品を多く生み出しました。

ドイツ

イタリアやフランスでバロック音楽が隆盛した頃、ドイツは新旧の宗教の せめぎ合いを原因とする三十年戦争で疲弊していました。この地の音楽が息 を吹き返すのは1648年の終戦以降のこと。教会を中心に多くのカンタータ やオルガンの独奏曲が生まれました。そして、18世紀になるとテレマン、 ヘンデル、バッハの3大巨匠がバロック音楽を最高潮へと導きます。 クラシック音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハ (1685~1750)は、中部ドイツのアイゼナハという町に生まれました。幼く して両親を亡くし、オルガユストの兄を頼って音楽の道にはいると、15才 で北ドイツ、リューネブルクの町で教会の聖歌隊員になり、のちにオルガン 奏者となります。以後は、ワイマールの宮廷音楽家など様会な雇い主のもと、 オルガユスト兼作曲家として活躍します。 バッハがもっとも活躍したのは、1723年、ライプチヒの聖卜-マス教会 に就職してからです。市全体の音楽監督も兼ね、大学生の演奏団体コレギウ ム・ムジクムに多くの楽曲を提供しました。 代表曲はバロック時代の宗教音楽の最高傑作とされる「マタイ受難曲」 「ヨハネ受難曲」。ピアノの練習曲として有名な「インベンションとシンフォ ニア」「平均律クラビーア曲集第1巻」や「フランス組曲」「イタリア協奏 曲」など。また室内楽曲では、バイオリン1本だけで演奏する「無伴奏バイ オリンのためのソナタとパルティータ」、チェロの「無伴奏チェロ組曲」。管 弦楽曲では「ブランデンブルク協奏曲」などがあります。 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(1685~1759)は、バッハと並んで バロックを集大成した音楽家です。中部ドイツのハレの町で生まれ、17才 で大聖堂のオルガユストとなったヘンデルは、翌年ハンブルクの歌劇場で2 つのオペラを作曲し、音楽の本場、イタリアを目指しました。彼は、イタリアでオペラを作曲、上演し、さらにオラトリオも学んだのち、ドイツへ戻り、 ハノーファー選帝侯(貴族のようなもの)の宮廷楽長に任命されます。とこ ろが、間もなくイギリスへと活動の拠点を移します。 当時、ロンドンではイタリア歌劇の人気が高く、ヘンデルはこの地でイタ リア仕込みのオペラを多数作曲し、王室のための祝典音楽などを作曲して不 動の地位を手にしました。しかし、1714年、イギリスのアン王女が亡くな ると、ヘンデルにとって思いもかけない事態がもち上がります。次のイギリ ス国王に即位するのが、ヘンデルの本来の主人、ハハファー選帝侯だった のです。ヘンデルは、国王がロンドンに到着すると、素晴らしい祝典曲を演 奏し、引き続き宮廷音楽家として篤い待遇を受けました。晩年にはイギリス に帰化し、オペラからオラトリオへと作曲の傾向を移し、74才の生涯を閉 じました。 代表的な作品に「メサイア」があります。イエス・キリストの予言と誕生、 受難と復活が壮大なスケールで展開される、オラトリオの史上最高傑作とさ れています。生涯の仕事のなかでは声楽曲が大きな位置を占めますが、私た ちになじみの深いものとしては、管弦楽組曲の「水上の音楽」「王宮の花火 の音楽」など。また、ヘンデルが鍵盤楽器の名手だったことを偲ばせる、八 -プシコードのための組曲も多数あります。 18世紀後半、音楽はバロックから古典主義の時代へと移ります。音楽史 では、巨匠・バッハの死(1750年)を境として、それ以前をバロック、以後 を古典派の時代としています。

ポリフォニーからホモフォニーへ

古典派の音楽は、バロックやそれ以前の音楽とは異なる、新たな特徴を多 く生み出しました。 もっとも大きな違いは、古典派の音楽では、バロックの特徴だった通奏低 音がなくなったこと。そして、バロック以前の音楽が、対位法という作曲技 法を用いた「ポリフォニー(多声音楽)」だったのが、「ホモフォニー(和声 音楽)」に変わったことがあげられます。 対位法とは、いくつかの声部やメロディーが、互いにずれたり重なり合っ たりしながら同時に進行していくものです。 一方のホモフォニーは、ひとつのメロディーを主とし、それを豊かなハー モニーでバックアップする作曲技法を指します。 そのほか、古典派の曲には、速度の自在な変化や強弱がみられ、厳密陛の 勝ったバロックにはなかった、多彩な情緒的表現が特徴です。 この時代の音楽を古典派と呼んだのは、バロックのときと同様、後世これ、・ に続いたロマン派の時代の人会でした。ハイドンやモーツァルトに代表され るこの時代の音楽こそが、以降のクラシック音楽の古典となるべきである、 という思いがこめられていたのでしょう。

ソナタ形式の確立

古典派の音楽が築き上げたものは、以降の交響曲や管弦楽曲の基礎を成します。その業績のなかでも特筆すべきものが、ソナタ形式の確立でしょう。 ソナタ形式は、提示部一展開部一再呪部の3つの部分から成り、提示部で 示される第1主題と第2主題とが展開部で複合的に変化し、さらに再呪部で もう一度示されるかたちをとります。第1主題と第2主題は、かなり印象の 異なるものですが、異質なものをぶつけ合うことで、音楽の完成度を高める 緊張感や劇的な効果が得られると考えられていたようです。 曲の展開、つまり主題の成長や変貌を楽しむソナタ形式は、交響曲や協奏 曲、ピアノ・ソナタ、室内楽などにとり入れられています。

貴族の睡眠薬「ゴルトベルク変奏曲」

絶対王政の時代の音楽は、しばしば、貴族のわがままを満足させるために作曲されたといわれますが、その代表的な曲のひとつが、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」かもしれません。2段の鍵盤をもつチェンバ口(クラヴィーア)で、つくり演奏される30余りの変奏曲から成り、全曲が終わるまでに、50~90分もかかるという大作です。これを発注したのは、バッハのパトロンのひとりだったカイザーリンク伯爵。不眠症に悩んでいた伯爵は、この曲をゴルトペルクという名のお抱え奏者に演奏させ、その優れた演奏力殲し出すえもいわれぬ気怠さを楽しんだとか。日頃から世話になっていたバッハが、感謝をこめてこの曲を献呈したともいわれますが、コップ一杯の金貨という、当時としては破格の報酬を受け取ったとする説もあり、真偽のほどは定かではありません。芸術家に敬意を表し、演奏で高鼾は失礼、という今日の常識からすると、意外な成り立ちの曲ですが、不眠症に悩む人も多い今日この頃、癒しや安眠効果を高める曲のリストに加えたい“眠くなる曲”の筆頭といえるでしょう。

古典派の時代のヨーロッパ

ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト。古典派を代表す るこれらの音楽家たちが、共通して生涯の一時期を過ごした都市がウィーン です。当時、音楽家が職を求めて訪れるもっとも豊かな都市が、神聖ローマ 帝国の都、オーストリアのウィーンでした。古典派の時代は、ヨーロッパ社 会の激動期。最大の勢力を誇っていたフランスには、ルイ15世が君臨して おり、民衆のあいだには、長年にわたる絶対主義政治と貧困に対する不満が 高まっていました。このなかから生まれた新しい生き方への模索が、モンテ スキューやボフレテール、ルソーなどに代表される啓蒙鬯、想です。 一方、オーストリアとドイツを統治していた神聖ローマ帝国では、ハプス ブルク家の女帝、マリア・テレジアを筆頭に、周辺諸国の君主たちもフラン スの絶対王政とは異なる緩やかな政治改革を目指していました。啓蒙君主と 呼ばれたこの諸侯のなかのひとりが、ハイドンの雇い主として知られている エステルハージ侯です。 ところで、音楽史では、古典派の時代を、バッハの死からベートーベンの 死までのあいだとしています。古典派の初期、「前期古典派」と呼ばれる音 楽家たちが活躍したのはドイツ南西部のマンハイムの宮廷でした。大バッハ の息子たちやシュッターミッヅ親子などが有名ですが、現在の日本ではあま り知られていません。彼らは、マンハイム楽派またはベルリン楽派と呼ばれ、 バロックと古典派の橋渡しをしました。過渡期の音楽家として、彼らがハイ ドンやモーツァルトの出現の舞台を整えたのです。 同じ頃、イタリアでは、オペラがますます盛んで、ボッケリーニをはじめ とするたくさんの歌劇の作曲家たちが、ペテルブルグやウィーン、スペイン のマドリッドへと出稼ぎに行き、各地で歌劇を作曲・上演して喝采を浴びて いました。このため、オペラは、あたかもイタリア人の専売特許のようにな つており、どの国においてもイタリア語で上演されたといわれます。 このように、当時のヨーロッパの音楽家たちは、職を求めて旅の空にある のが普通でした。モーツアルトの敵役として、近年つとに有名になったサ リエリは、イタリアからウィーンにやってきた音楽家でした。 バロックから古典派への移行期は、音楽家の世代交代が如実にみられた時 代でもあります。多くのバロック音楽家たちは、日世代の遺物として批判の 的となり、かのバッハでさえも世の中から忘れ去られ、ひっそりとその生涓ミ を閉じたといわれます。この頃全盛期にあったのが、「交響曲の父」ハイド ンでした。そして、バッハの死から6年経った1756年、音楽史に燦然と輝 く天才音楽家、モーツアルトが誕生します。

ヨーゼフ・ハイドン(オーストリア)

オーストリアのローラウという村で鍛冶屋の息子として生まれたヨーゼ フ・ハイドン(1732~1809)は、学校にはいるため早くから親元を離れ、 8才でウィーンの聖シュテファン教会の児童合唱団に入団しました。ボー イ・ソプラノの美声は、大変な評判を呼びますが、変声期を迎えた17才の頃、他の団員のカツラをはさみで切る事件を起こし、このいざこざがもとで 合唱団を追い出されます。 その後、10年ほどのあいだ、彼がどうやって生計を立てていたかの記録 はあまり残っていません。当初は、他の教会の合唱団員に拾われ、祭りや酒 場など、まさに日雇いの仕事で凌いでぃたようですが、間もなく修道士の巡 礼に加わり、村の教会の合唱団員となって小金を貯めると、ふたたびウィー ンに戻ってきました。 肖像で見るハイドンは、端正で教師然とした印象を与えますが、これはか なり脚色、修正を加えた姿です。実際は貧乏物語に事欠かない青春時代を送 り、風貌に関しても、天然痘のあばたが顔中に残り、終生鼻茸にも悩まされ ていたといいます。 ハイドンが音楽家としてのキャリアを積むチャンスを得たのは、1759年、 ボヘミア(現在のチェコ)のモルツィン伯爵家の楽長になり、最初の交響曲 を作曲したときでした。2年後には、ハンガリーのエステルハージ侯爵家の 副楽長に就任し、多くの交響曲や四重奏曲、オペラなどを作曲しました。 その華やかな仕事ぶりから彼の名は世界的に高まり、ロンドンの出版社と 楽譜の出版契約を結ぶまでになりました。これが縁となり、エステルハージ 侯爵の死を機にウィーンへ移住したのち、2度にわたってイギリスを訪れて います。 このイギリス旅行のあいだに、彼の名声は頂点に達し、「パパ・ハイドン」 の名は、ヨーロッパ中に響きわたりました。そして、ふたたび、エステルハ ージ家に請われ、ヘンデルのオラトリオに刺激を受けて、その創作に励みま した。1809年、ハイドンが生涯を閉じたのは、ナポレオンがウィーンを攻 撃する直前のことでした。 ハイドンの業績は膨大ですが、重要なのは交響曲と弦楽四重奏曲、オラトリオです。交響曲はのちにナンバーをつけられ、第104番までが整理されて いますが、このほかにも何曲か残っています。 弦楽四重奏曲は、第83番(未完成)までありますが、近年の研究では、 ハイドンの作ではないものが混じっていることがわかっています。後世、曲 の印象から親しみやすい名をつけられた、第67番の二長調「ひばり」、第77 番の八長調「皇帝」、第78番の変口長調「日の出」などが有名です。 晩年に作曲されたオラトリオでは、「天地創造」「四季」が知られています が、とくに「天地創造」は、ハイドンの76才の誕生日を祝し、ウィーン大 学講堂で初演されたもの。当日はサリエリ力甘討軍し、ベートーベンを含むウ ィーンの楽壇が、総出演したという一大イベントでした。

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(オーストリア)

世界中で誰より多くのファンをもつ作曲家がモーツァルトでしょう。わず か36年足らずの生涯に、600曲以上という、驚くべき多数の傑作を残し、神 童、天才の名を欲しいままにした最高の音楽家。しかし、その生涯は、後世 の名声にはそぐわぬ苦難の連続だったともいわれます。 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)はオースト リアの古都、ザルツブルクで宮廷音楽家の息子として生まれました。父のレ オポルトは、息子アマデウスとその姉ナンネル(マリアンネ)の才能をいち 早く見い出し、的確な音楽教育を施しながら、演奏旅行に出かけ、各地で神 童姉弟を売り込むのに余念がありませんでした。 1762年の初めには、当時6才のモーツァルトを連れてドイツのミュンヘ ンへ、同年秋から翌年にかけてウィーンとドイツ各地を巡り、ベルギーを抜 けてパリヘと続く大ツアーを成し遂げます。さらに1760年にはイギリスの ロンドンへ。翌年の夏にはオランダへ行き、翌春にはふたたびパリヘと向か います。このように、モーツァルトは、6才から10才までの期間を音楽旅行に明け暮れたのでした。 父の奮闘やこれらの旅行の甲斐あって、モーツァルトの天才ぶりは、中部 ヨーロッパに知れわたりました。ウィーンの宮廷では、のちのフランス王妃 となり、革命の露と消えたマリー・アントワネットに出会い、「僕のお嫁さ んにしてあげる」といったという逸話が有名です。モーツァルト家の演奏旅行は以後も続けられ、。ウィーン、イタリアでの旅 生活が続きました。モーツァルトはそうした馬車での強行軍の移動に疲弊し ながらも、行く先会で音楽の要素を貪欲に吸収し、その創作の世界を広げて いったのです。 映画「アマデウス」では、音楽的な天才と対比させ、未成熟で品性下劣な 人間性が描かれていますが、その真偽はともかく、彼は故郷のザルッブルク の雇い主、大司教ヒエロニムス・フォン・コロレードの管理下で意にそぐわ ぬ音楽を続けることに飽き、単身ウィーンを目指して旅立つこととなります。 モーツァルト25才のときでした。 それまで、名のある音楽家は、たいてい宮廷や教会に雇われて生計を立て ていました。宮仕えの身なら、芸術家であっても、雇い主の意向に添う仕事 をするのは当然の世でした。しばしば本意にそぐわぬ曲を作らざるを得なか ったことも、想像に難くありません。当時は、音楽家の身分は低く、モーツ アルトほどの才能があっても、貴族とともに宴席で食事をすることは許され ず、台所で他の使用人だちと一緒に、粗末な食事をとっていたといわれます。 このような時代に、フリーの音楽家として最初の立場を築いたのがモーツ アルトでした。彼が到着したときは、すでにフランス革命から2年 の月日が過ぎ、ヨーロッパは歴史的な転換期にありました。ルイ16世と王 妃マリー・アントワネットが処刑され、芸術の世界に影響をもつパトロンは 王侯貴族たちから銀行家や商人など、豊かな市民に移っていきました。モー ツァルトは、市民階級から発注を受けて生活する、自由な音楽家として独立 しようと考えたのです。 モーツアルトの目論見は、当初大当たりだったといえます。多くの注文が 寄せられ、作曲にコンサートにと八面六臂の活躍が続きました。しかし、彼 を破滅させたのは、音楽の神に魅入られ、子どもの心のまま育ってしまった 彼の幼児性でした。妻コンスタンツェとともに浪費の限りを尽くし、さらに 精神面の支えだった父・レオポルトの死に出会うと、30代のモーツァルト は急速に赤貧と病苦の真っ只中に落ち込んでぃきます。彼の最期は、葬儀も なく、亡骸や埋葬場所も不明のままという悲惨なものですが、現在、ウィー ンの中央墓地には、不世出の天才を讃える記念碑が建てられています。 モーツァルトの作品の代表的なものは、オペラと交響曲でしょう。オペラ では「フィガロの結婚」「コシ・ファン・トゥッテ」「ドン・ジョバンニ」 「魔笛」の4大歌劇。ほかにも「後宮からの逃走」などが有名です。 交響曲では初期の第25番卜短調、第29番イ長調、そして後期6大交響曲 としてあげられる第35番二長調「ハフナー」、第36番八長調「リンツ」、第 38番二長調「プラハ」、第39番変ホ長調、第40番卜短調、第41番八長調「ジ ュピター」などが傑作として知られています。 このほか、「モーツァルトのメヌエット」として知られる第17番二長調、 第13番卜長調の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」も、日本で人気が ある作品です。 モーツァルトのメロディーは、この世の美しく楽しいものを表現しており、 それが無邪気な喜びをもたらしてくれます。歓喜に満ち、自在に動きまわる メロディーとハーモニーの豊かな響きが、自然で自由な音楽の世界を繰り広 げるのです。浮き世のしがらみに足を取られ、心が沈んでいるときも、モー ツァルトの天衣無縫な音楽を聴くと、心のなかにとっておきの美しい世界が あることを思い出し、大いに救われる心地がします。 ルートウィヒ・フ会アン・ベートーベン(ドイツ) ベートーベンには、いつも苦虫を噛みつぶしたような表青の人、という印 象があります。彼には、苦難とか、逆境といった形容詞が似合い、実際、そ の音楽も、困難を経て歓喜へいたるという、思想的な道のりを表すものが多 いようです。 ルートウィヒ・ファン・ベートーベン(1770~1827)は、当地の選帝侯の 宮廷楽団員の息子として、ドイツのボンで生まれました。父は、美声のテノ ール歌手でしたが、酒乱の気味があり、しばしば息子に過酷な音楽の勉強を 強いたといいます。モーツアルトの登場以来、巷で大流行だった神童音楽家 のひとりとしてベートーベンを位置づけたい、という野心をもっていたらし く、デビュー演奏会には年齢をひとつサバよみ、6才と偽って出演させるほ どでした。しかしベートーベンは、父のもとから巣立つと、優秀な音楽教師のネーフ エのもとで学び、ブロイェング家に出入りしながら、文学や思想の薫陶を受 けることとなります。このあいだ、ウィーンに旅行し、モーツァルトの前で 即興演奏をし、大変な称賛を受けています。また、19才の頃にはボン大学 で哲学科の聴講生にもなるなど、風雲急を告げる隣国フランスの政治情勢に も刺激され、世の流れに遅れないだけの鋭敏な知性も兼ね備えていました。 そして22才のとき、ボンの選帝侯から奨学金を受けて、音楽を学びにウィ ーンに向かいます。 ハイドンをはじめとするウィーンの名音楽家たちに教えを請いながら、ベ ートーベンは貴族を中心とした社交界に足を踏み入れます。その中心の場と なったのがフォン・リヒノフスキー侯爵の邸でした。2年後、ウィーンでの デビュー演奏会が行われ、ピアノ協奏曲第2番を発表、以降も順調にキャリ アを重ねていきます。 ところで、神童と呼ばれたベートーベンが、最初に交響曲第1番八長調を 作ったのは29才のとき。当時の音楽家としては、決して早いほうではあり ません。これは、彼が交響曲にこめた思い入れが強く、交響曲こそが彼自身 の思想を最大限に表現することのできる壮大な器だと考えたからだといわれ ています。 ところが、その数年後、順調そうに見えた船出の影で、難聴という、音楽 家にとっては致命的な不幸が彼を脅かし始めました。まだ27才の頃のこと です。音楽家としての社会的地位を思えば、これは誰にも打ち明けられない 苦しい秘密でした。31才のとき、彼はついに自殺しようと決心し、苦悶の 遺書をしたためます。「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるこの書簡 は、彼の死後発見され、その文学的に優れた内容が高く評価されています。 ともあれ、遺書を書くのみで自殺は思いとどまったベートーベンは、ピア ノ演奏家の道をあきらめ、作曲家として再出発を試みます。 啓蒙思想に傾倒し、フランス革命の思想を賛美したベートーベンは、将 軍・ナポレオンの支持者でもありました。有名な交響曲第3番変ホ長調「英 左隹」は、将軍を讃える雄大な交響曲として書かれました。しかし、ベートー ベンの理想に反し、ナポレオンは皇帝の位についてしまいます。ベートーベ ンは、この曲を献膃するのをとりやめ、理想主義者としての意志を貫いたの でした。終生独身を貫いたベートーベンは、女陛に対して大変不器用だった ことで知られています。しかし、社会的には信頼も篤く、56才の生涯を閉 じたときには、ウィーン中の学校が休校になるなど、市をあげて哀しみに沈 んだといいます。 作品中もっとも有名なものが、交響曲第9番二短調「合唱つき」でしょう。 日本では年末になると、「第9」の演奏会が全国で盛んに繰り広げられます。 年末にこの交響曲を演奏する習慣があるのは日本だけらしいのですが、近年では聴くだけでなく、合唱に参加して 「喜びの歌」を歌うのも盛んになって います。人会を歓喜させるこの詩は、 19世紀の大詩人シラーの作。人類愛に 満ちた人間讃歌は、いかにもベートー ベンの好むところでした。交響曲では、 このほか第5番八短調「運命」、第6 番へ長調「田園」も有名ですね。 青年期には名うてのピアニストだっ たベートーベンは、ピアノ・ソナタに も佳作を多く残しています。初期の第 8番八短調「忿倉」、中期の第14番嬰 八短調「月光」、第23番へ短調「熱青」は、3大ソナタと呼ばれています。 ベートーベンは、ひとりの人間として社会と深く関係し、全人格的な立場 で音楽を創り上げようとした最初の作曲家でした。意外にも、その知性は、 かつての音楽家たちにはみられない、自主独立の精神に基づいているように みえます。彼は、雇い主を固定しなかったにもかかわらず、多くの諸侯から 年金を貰う契約を結び、また楽譜の出版に関しても如才なく立ち回るなど、 混迷する時代を生きていくために必要な社会性も身につけていました。 その音楽にこめられた思想的なメッセージとともに、人権の概念をもつ近 代市民の出現を象徴する、傑出した芸術家だったのです。

ハイドンの「驚愕」で貴婦人失神

クラシックの音楽会といえば静粛が当然のように思われていますが、バイト ンがロンドンに渡った1790年当時、この地では聴衆のほとんどが、静かに音楽に耳を傾けるというマナーを身につけていませんでした。 開扉き間前に着席するなどもってのほか、演奏が始まってから足音高く入場 し、声高に知人と挨拶を交わす紳士たち。夫人たちは、ひっきりなしのお喋り を当然のこととし、終いには喋り疲れて眠ってしまうという状態でした。この マナーの悪さに驚き呆れたハイドンは、「音楽でみんなの目を覚ましてやろう」 と一計し、交響曲第94番第2楽章でそれを実行します。うち続く静かなメロ ティーの途中で、前ぶれなく響く大音響。うとうとしていた貴婦人が悲鳴をあ いfて失神し、会場はさらに騒然となったとか。目論見もこれでは逆効果?

ロマン派の音楽

19世紀の音楽をロマン派と呼びます。バロック音楽や古典派と呼ばれる 音楽が、いずれも後世の人会によって名づけられたものであるのに対し、口 マン派は、当時の音楽家たちが自らその主義を支持することを表明し、自覚 的に名のったものです。19世紀は芸術のみならず、ヨーロッパ中にロマン 的な気分力蔓延した時代でした。 そもそも「ロマン」とは、中世にラテン語から分化したロマンス語(地域 の方言)で書かれた文学に3蕕原をもちます。内容は、おもに騎士道物語で、 その物語世界が“ロマンチックなどの語を生みました。 中世のロマンは、空想的で勧善懲悪的な理想主義を描いたものでしたが、 19世紀には、これが物語の具体陛を離れて抽象化され、より自由な思考や、 抑圧のない剖充のように流れる感青のことを指すようになったのです。 ロマン派の音楽は、1世紀のあいだに様会な変節がみられることから、前 期ロマン派と後期ロマン派とに分けられています。

前期ロマン派

歴史は、時代区分を設け、これに基づいた解釈を基本としますが、実際に は、そうきっぱりと分かれるものではありません。音楽史にしても同様で、 仮に何年からはロマン派の時代である、という目安をつけたとしても、その 前後に渡って、新旧が入り交じって存在するものです。 ことに、市民革命のもたらした人権の概念が広がり、職業が世襲ではなく 個人の選択に任され始めた19世紀においては、様会な個人の主義主張が入 り交じり、音楽界も一種の混沌とした状態にありました。 この時代の音楽は、作曲家が意識的に自己主張を始めた頃のもの、と捉えると理解しやすぃでしょう。それまで、宮廷のお抱え楽士や教会専属の音楽 家として、いわば職人的立場にあった作曲家や楽士たちが、自由意志を表現 する芸術家たらんとし始めたのです。 この時代の土台を作ったのは、ベートーベンでした。古典派の最後を飾っ たベートーベンは、交響曲第6番へ長調に「田園」と命名しましたが、これ が、ロマン派の特徴となった「標題音楽」の誕生に先鞭をつけたのです。

歌曲「ドイツ・リート」

前期ロマン派の特徴は、音楽に文学的要素をとり込んだことです。シュー ベルト、シューマン、メンデルスゾーンなどの作曲家は、詩のなかに感青や ストーリー、内容などを表現した歌曲、“ドイツ・リードを作りました。 これらの歌曲は、1曲ずつ独立したものだけでなく、テーマに洽って数曲を 組み合わせた「連作歌曲」などもあります。 有名な曲としては、まず、シューベルトの「魔王」があげられます。文豪 ゲーテの詩一病気の子どもが魔王の死の手にさらわれる情景-が、ドラマチ ックで不安に満ちたメロディーで彩られています。このほか、シューベルト の「冬の旅」や、もっとも文学に傾倒していた作曲家、シューマンの「女の 愛と生涯」などが連作歌曲の代表作です。 これらの歌曲では、歌とともに、ピアノによる伴奏の作曲にも力が入れら れ、歌い手と伴奏者とが共同して詩と音楽の表現世界を創造しています。

標題音楽

歌曲では、文豪の詩をとりあげることで文学陛を表していますが、器楽曲 においては「標題」を掲げてそれを示しました。ベートーベンが「田園」 「英雄」など、音楽に情景や感情表現を盛り込んだのを機に、作曲家の目標 は、聴き手のなかにイメージを繰り広げることへと集中していったのです。 標題音楽は、ピアノ曲に多くみられます。これは、ピアノという楽器の発達史と関連します。かつてハープシコードやチェンバロなどの鍵盤楽器が、 この時代にいたって現在のピアノとして完成し、音域、音色、強弱の幅とも に、独奏にふさわしい楽器として熱狂的に迎えられたのです。 名曲「トロイ・メライ」を含むシューマンの「子どもの情景」や、「ベニ スのゴンドラの歌」など60曲から成るメンデルスゾーンの「無言歌」など には、趣向、アイディアを凝らした詩や短編小説を思わせる小品が並びます。 これらの標題つきのピアノ曲は、ソナタを中心とした従来の形式を打破し、 より自由で楽しいピアノ音楽の世界を生み出しました。また、シューベルト は、歌曲でみせる傑出した表現力をそのまま「即興曲」「楽興の時」などの ピアノ曲にも表しています。 こうしたなか、ピアノの詩人と呼ばれるショパンが登場します。ピアノを 学ぶ人の多くが、ショパンを弾きこなすのを目標にするといわれるほど、珠 玉のピアノ曲を数多く残しています。「別れの曲」「子犬のワルツ」などが有 名ですが、実際にはショパン自身が、作品に標題をつけたわけではありませ ん。彼は、「マズルカ」「ポロネーズ」「バラード」「ワルツ」など、舞踏のリ ズムに沿った曲を次会と書き、そのメロディーの世界が、あまりに聴く者の 情緒に訴えたため、のちに標題がつけられたのです。「マズルカ」は、生ま れ故郷のポーランドに伝わる古い民族舞曲でしたが、ショパンによって、そ の独特のリズムが広く知られるようになりました。

超絶技巧のソリストたち

バイオリンでは、不世出の天才、二コロ・パガユーニ(1782~1840)が 大活躍します。イタリア・ジェノバ生まれの天才バイオリェストは、ほとん ど独学でバイオリンをマスターし、既成の曲では自身の技巧を発揮しきれな いと、「カプリース」などの超難曲を作曲して披露しました。その演奏会で は、演奏のあまりの緊迫感に子女が興奮、ハタハタと失神したといわれます。 まだ、電気のなかった当時の会場で蝋燭の明かりに揺らめく黒装束の異様 な風体を、人会は悪魔の化身だとか、彼の背後からバイオリンを弾く悪魔の 手が見えたと噂したとも。ともあれ、前期ロマン派の時代には、楽器の完成 とともに、人間業とは思えない技巧をもった音楽家たちが登場し、各地に旋 風を巻き起こしたのもひとつの特徴といえるでしょう。

歌劇「オペラ」

ロマン派の特徴が文学との結びつきだとすれば、当時、オペラが絶頂期を 迎えるのは必然のことでした。古典派の時代、イタリアで全盛を誇ったオペ ラは、フランスやドイツでそれぞれ発展し、地域的な粋1生を顕著にしつつあ りました。この傾向は、ロマン派の時代になってさらに明確となり、それぞ れの民族の好みが、如実に反映された作品が生まれます。 フランスでは、歴史物語を題材とし、バレエなど華やかな見せ場を多くし た「グランド・オペラ」が登場します。代表的なものにマイアベーアの「ユ グハ教徒」があります。 イタリアでは、ロッシーニが一躍人気を得ました。喜劇風に仕立てた歌劇、 オペラ・ブッフェの「セビリアの理髪師」、グランド・オペラでは「ウィリ アム・テル」が有名です。この時期のイタリア歌劇には、喜怒哀楽の感晴に 富んだイタリアが余すところなく描かれています。ロッシーニの後 には、ドユゼッティとベルリオーズが続きます。ドイツでは、フランスやイタリアの影響から抜け出そうと試みて、ドイツ 民謡のメロデイ―をとり入れるなど、民旋陛を強調した音楽が発達しました。 その代表作としてはウエ―パ―の「魔弾の射手」などがあります。

交響曲ほか

作品に標題をつける傾向は、交響曲をはじめとする器楽曲にもみられます。 メンデルスゾ―ンは、実際に旅行したときの印象を、交響曲第3番イ短調 「スコツトランド」、第4番「イタリア」に表現しました。このほか、シユ― マンの交響曲第1番「春」もよく知られています。 しかし、なんといつても、ロマン派の標題音楽を交響曲の分野で大きく発 展させたのはべルリオーズです。代表作「幻想交響曲」や「ロメオとジュリ エツト」では、すべての楽章に標題がつけられ、物語の詳細も添えられてい ます。また、オ―ケストラに目新しい楽器を加えたり、員数を増したり、合 唱を盛り込んだりと豊かな響きにこだわつたことも特徴です。 室内楽では古典派と比ぺてこれといつた発展はみられませんが、シユ―ぺ ルトのピアノ五重奏曲イ長調「ます」、シユ―マンのピアノ五重奏曲変ホ長 調などが有名です。 前期口マン派の音楽家たち 前期ロマン派の音楽の中心地となつたのは、中央ヨーロッパでした。各地から、音楽を志す者や腕に自信のある演奏家が集まり、 互いに刺激、啓発しあいながら卜と呼ばれる歌曲が約633曲。音楽史の なかでは古典派の最後を飾り、前期ロマ ン派を方向づけた大作曲家とされていま す。 シューベルトは音楽を愛する家庭に育 ち、幼い頃から楽器や理論を学びました。 11才でウィーン宮廷礼拝堂の合唱団には いると、帝室王立寄宿学校に入学、サリ エリから作曲を学んでぃます。ウィーン には、著名な音楽家の子息がひしめき、教師を父にもったシューベルトは、エリートというわけではありませんでし た。しばらくのあいだ、父と同じく教師を務めますが、音楽への情熱止み難 く、友人のもとに居候しながら作曲に励みます。今でいうフリーターのよう に、定職ももたず、ピアノすら所持していなかったといいますから、芸術家 例削から好かれても、社会生には欠ける人物だったのかもしれません。しか し、友人たちのあいだでは、彼の才能は知れ渡っており、毎年誰かの邸宅で 「シューベルティアーデ」と呼ばれる、小さな演奏会が開かれていました。 代表作の「魔王」が書かれたのは彼が18才のとき。ゲーテのこの詩を大声 で朗読した後、一気呵成に書き上げたといわれます。 「魔王」は、友人の手でゲーテ本人にも送られましたが、ナシのつぶてだっ たとか。 歌曲のほかには、「未完成交響曲」をはじめとする8つの交響曲や、22曲 のソナタなどの美しいピアノ曲があります。室内楽では弦楽四重奏曲第14 番二短調「死と乙女」、弦楽五重奏曲八長調がともに傑作とされています。 これだけの曲を作りながら、シューベルトはいつも赤貧砂真っ只中にあり、公開演奏会も亡くなる年にただ1度開いただけという有り様でしたが、楽天的で優しい性格で、誰にも好かれる人物だったようです。実際、彼のメロデ ィーには人間の悪意を払ってくれるような、崇高な美しさがあります。同時 代に生きたベートーベンが意志の人ならば、シューベルトは生まれながらの 無垢を善に昇華させ、音のなかにその世界を構築した、たぐい稀な芸術家だ ったといえるでしょう。

カール・マリア・フォン・ウェーバー(ドイツ)

ドイツ初期ロマン派を代表する作曲家のカール・マリ ア・フォン・ウェーバー(1786~1826)は、生まれながらに音楽家になる よう運命づけられていました。というのも、ウェーバーの父が、天才モーツ ァルトを娘婿にもつ実の兄に、大変なライバル意識を燃やしていたからです。 ウェーバーは二番目の妻の子で、年の離れた兄だちとともに、父の率いる 巡回歌劇団一座の旅巡業の馬車の中で育ちました。父は、行く先会で著名な 音楽教師に息子の指導を頼んだといわれます。その甲斐あって、ウェーバー は17才でブレスラウの指揮者となったのを皮切りに、優秀な指揮者、ピアニストとしてヨーロッパ各地で活躍 します。27才でプラハ歌劇場指揮者、 4年後にはドレスデン歌劇』場の音楽監ほ となり、哥嫉』「魔彈の射手」を作曲しま す。この歌劇は、ボヘミア地方を舞台に、 悪魔伝説を題材にした神秘的な物語を、 ドイツ民謡風の音楽で壮大に歌い上げた 傑作で、ドイツ・ロマン派歌劇を確屁し た意義ある作品となりました。しかし、 旅から旅への幼児期の生活の影響と、父の過大な期待に応える音楽活動の無理がたたったのか、結核を患い、40才 の若さで生涯を閉じました。 このほか「舞踏への勧誘」も彼の代表作で、のちにベルリオーズが管弦楽 曲に編曲し、再度脚光を浴びることとなります。

フェリックス・メンデルスゾーン(ドイツ)

フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)は、ドイツのハンブル グの裕福なユダヤ系の銀行家の家に生まれました。ユダヤ人に対する差別の あった当時にあって、いつも社交界の中心を成した家系だったといいますか ら、その地位の高さがうかがわれます。そんな環1竟で、幼い頃から、ラテン 語をはじめ、文学、絵画などを学び、栗馬などのスポーツにも秀でるなど、 まさに名家の誇りを一身に受ける子息でした。音楽では、9才で公開演奏会 を開くほどの才能を示し、文豪ゲーテにも可愛がられていたといいます。し かし、典型的な知的階級の御曹司であった彼が、職業音楽家になるについて は、家族会議がもたれるほどの騒ぎとなりました。20才になると、イギリ スを中心にヨーロッパ各地を演奏旅行し、このときの思い出をもとに「フィ ンガルの洞窟」序曲や、交響曲第3番イ短調「スコットランド」を作曲し、 36才でライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者になりました。また、 多くの弟子を抱え、この地に音楽院を設立するなど、教育にも力を注ぎまし た。埋もれていたバッハの「マタイ受難曲」を復活させた功績も知られてい ます。 このほか「真夏の夜の夢」序曲、ピアノ曲集「無言歌」などが有名です。 無言歌の原題は「歌詞のない歌曲集」で、題に違わず、どの曲も思わず口ず さみたくなるような美しいメロディーが特徴です。 ところで、全49曲のうち、メンデルスゾーン自身が副題をつけた作品は わずか5曲だけ。ほかの題名は、のちに聴いた人会の印象でつけられたものといわれます。ピアノ曲集でこれほど多くの副題をもつのはこの「無言歌」 だけです。彼の旋律がいかに豊かな世界を紡ぎ出すものであるかを再認識さ せます。

フレデリック・ショパン(ポーランド)

生地ポーランドで幼い頃から神童と讃えられたフレデリック・ショパン (1810~1849)は、20才のとき、ヨーロッパ全土での活躍を期して、花の都 パリヘ出ました。その傑出した才能は、ライバルのリストをして感嘆させ、 名門、ロスチャイルド家の庇護を受けてサロンで引っ張りだこの存 在になります。すらりとした痩躯、金髪に青い瞳、鼻筋の通った美男子だっ たショパンは、上流階級の子女をたくさん弟子として抱え、大変裕福な時代 を過ごしたといいます。 ショパンといえば、連想ゲームのようについて回るのが女流作家、ジョフレ ジュ・サンドの名。男装をして煙草を離さず、華麗な男性遍歴を重ねていた 彼女が、10年間にわたり、6才も年下で、しかも結核を患うショパンに付 き添った恋愛は有名です。 見るからに繊細だったショパンは、ホールのような広い会場にはそぐわな いピアニストでした。実際、ショパンの成した曲はどれも、彼の表情が見えるぐらいの距離で聴きたいと思わせるほど、細かいニュアンスと技巧に満ち た、精巧な細工のようなものばかりです。 パリの人会は、ポーランドのような田舎でどうやってこれはどの技量と音 楽陛を身につけたのか、と訝ったそうですが、田舎育ちだったからこそ培わ れたユニークな音楽性がいくつかあります。そのひとつが、楽器としてのピ アノを効果的に響かせる、斬新な和声とペダルの使い方。もうひとつが、ワ ルツ、マズルカ、ポロネーズなど3拍子の曲に表現された故郷の舞踏音楽の 香りです。ショパンの音楽は、これら3拍子のものと、エチュードやノクタ ーンなどの即興生を感じさせる絶対音楽(標題のない音楽)です。ピアニス トに「ショパン弾き」と呼ばれる一群があるほど、その音楽世界は独特です。 代表的な作品には、即興曲第4番嬰八短調「幻想即興曲」、ポロネーズ第 6番変イ長調「英雄」、「別れの曲」「黒鍵」「革命」などを含む12の練習曲 作品10などがあります。

ロベルト・シューマン(ドイツ)

文学との結びつきが深いロマン派の音楽家のなかでも、もっとも文筆に優 れていたのがシューマンかもしれません。書店の息子として生まれたロベル ト・シューマン(1810~1856)は、幼い頃から文学に親しみ、長じて音楽 の道に進んでからは、評論誌「新音楽時報」を創刊して、ブラームスやショ パンをはじめとする多くの音楽家を世に送り出しました。 私生活では、天才女流ピアニスト、クララと大恋愛の末に結婚、波乱の多 い結婚生舌のなか7人の子をもうけます。この結婚は、クララの父の大反対 を押してのもので、結婚が決まった年(歌曲の年と呼ばれる)にクララに捧 げて作られた多くの歌曲とピアノ曲が、彼の代表作となっています。 シューマンは、父と兄が病を患い、本人も内向的で変動の激しい性格だったといいます。晩年にはライン川に身を投げ、命けは助かったものの 残りの2年間を精神病棟て過ごし、亡くなりました。生前は、作曲家として の地位を確立するにはいたりませんでしたが、未亡人となったクララが、夫 の作品を演奏し続け、その作品の価値を後世に伝えました。クララは、いつ も黒い喪服をステージ衣装とし、76才の生涯を全うしたといわれます。 シューマンは、多岐にわたって作曲をしていますが、ピアノ曲と歌曲に優 れたものが多く、おもな作品にはピアノ曲集「子 どもの情景」、歌曲「詩人の恋」などがあります。

エクトール・ベルリオーズ(フランス)

ベルリオーズにぱ、吹き出したくなるような逸話が多くあります。それは、 彼が大変な激情家で、音楽への取り組みはもちろん、趣味にも恋愛にも、常 軌を逸した情熱を傾けたことに原因があるようです。 多くの音楽家が幼少期から神童ぶりを見い出され、なるべくして音楽家に なっていくのとは異なり、ベルリオーズは楽器もろくに弾けないのに、努力 と楫生だけで有名な作曲家になった人でした。 田舎の医者の家に生まれたエクトール・ベルリオーズ(1803~1869)は、 家を継ぐため17才でパリの医学校に進学します。しかし、学校はおざなり にして独学で作曲道に邁進、20才のときにはパリ音楽院で学び、ついに管弦楽に「標題音楽」という分野を確立しました。 彼は、恋敵を夜討ちにかけようと、演奏旅行先のイタリアから女装してパ リに侵入しようとしたなど、びっくりするようなエピソードにも事欠きませ ん。しかし、この情熱が名作「幻想交響曲」を生み出させたのですから、彼 のボルテージの高さはたいていよい方向に働いていたといってよいでしょう。 おもな作品には、劇的交響曲「ロメオとジュリェツト」、序曲「ローマの 謝肉祭」、「レクイエム」などがあります。遅れてきた天才、ベルリオーズの 独白な発想は、後期ロマン派のワーグナーの楽劇に受け継がれました。
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