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クラシック音楽の歴史について

ザビエルが伝えた西洋の音楽

1549年、ひとりのスペイン人宣教師が日本にたどり着きました。その名は、 フランシスコ・ザビエル。日本人が、初めて西洋の音楽に触れたのは、ザビエ ルが布教活動の一環として教えた「聖歌」でした。1551年には、クラビコードが献上されたほか、聖歌の伴奏楽器としてヴィオラが使用されたという記録も残っています。以降、各地に建てられた教会で、西洋音楽の教育も始まりました。 この時代、戦乱を収め日本を統治した織田信長は、安土城の近くの教会で西洋音楽の演奏を聴き、大変興味を示したといわれています。しかし、秀吉のキリスト教禁止、江戸幕府の鎖国を契機に、日本における西洋 音楽の芽は、300年という長い冬眠の時代にはいってしまうのです。

保守派と急進派

後期ロマン派の音楽は、19世紀後半、おもにドイツで発展しました。当 時の音楽は、大規模なオーケストラで演奏される交響曲や管弦楽曲、そして オペラなどスケールの大きな作品が主流となります。また、古典派以来の音 楽の方向性を堅持しようとする保守派と、斬新で前衛的なものを生み出そう とする急進派とに分かれ、互いの音楽が対立的な構造をもったことも、この 時代の特徴です。

後期ロマン派の保守的な音楽家たち

古典派以来の伝統的音楽をとり戻そうと、様式や重厚さを重んじた代表的 な作曲家がブラームスです。その威風堂会とした作品世界は、新古典主義、 あるいはロマン派のなかの古典主義などと呼ばれました。この分野には、ブ ルックナーやマーラーなどが名を連ねています。彼らの音楽は長大で、演奏 に1時間以上もかかる大曲もあります。 クラシック音楽を語るとき、フランス、イタリア、ドイツという3大国を比較すると、曲の成り立ちが明確になります。それ は、国民性、民族性など、各国に特徴的な雰囲気があるからです。 ドイツの後期ロマン派は、まさに知的で落ち着きがあり、理路整然としな がら体力も十分という、ドイツ大気質をそのまま表した音楽といえるでしょ う。ブラームスは、古典派から多くを学び、その作曲技法やオーケストレイ ションがさらに大規模な音楽へと発展していったのです。 上記の3人の作品が日本でも人気なのは、生真面目な国民性と関係がある のかもしれません。

後期ロマン派の急進的な音楽家たち

保守派の作曲家たちが、形式の上で、古典派以来の絶対音楽を基盤とした のに対し、急進派の人会は、標題を重要視し、作曲家自身の心象風景や主義 主張など、個人的世界を表現することを重視しました。 なかでも、前期ロマン派の時代から活躍していたリストは、文学よりさら に多くのものを含む世界を表現する、交響詩と呼ばれる新分野を開拓しまし た。交響詩とは、詩や絵画の内容を音楽に置き換え、標題をつけた交響曲の ことで、前期ロマン派のベルリオーズの影響が大きいといわれます。 音楽のみならず、社会的にもこの時代にもっとも注目された音楽家がワー グナーです。詩人で思想家、作曲家で指揮者という多彩な才能に恵まれたワ ーグナーは、歌劇だけでは飽きたらず、さらに大がかりな楽劇という方法を 実現しました。長いものは上演に4日間も要するという楽劇は、脚本、音楽 のすべてをワーグナーが手がけ、美術、装置などにも彼独特の好みが反映さ れるなど、徹頭徹尾彼の思想と美学に貫かれた総合芸術でした。 一般的に、オペラでは、出演者がソロを歌うごとに拍手を浴び、それで劇 が中断するのが通常ですが、ワーグナーのオペラは、劇中を通して途切れる ことなく音楽が続き、劇が進行していきます。観客を徹底的に舞台上の世界 に引き込む彼の理想は、急進的、進歩的な手法として熱狂的信者を生み出し ました。 その信者のひとりが、リヒヤルト・シュトラウスです。彼はオペラと交響 詩に傑作を残しました。交響詩では、題材を様会なものに求め、観念的題材 を扱った「死と変容」、そして、正反対に特定の出来事や物語を題材とした 「テイル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」などを世に問いました。 彼の作品には、ベルリオーズやリストより、さらに自由で変化に富んだ作風 が目立ちます。

後期ロマン派の歌劇(オペラ)

19世紀後半のオペラにおける音楽地図は、ワーグナーを中心とするドイ ツと、ベルディを中心とするイタリアの2大勢力に代表されます。 イタリアでは、前期ロマン派のドユゼッティやロッシーニなどに続いて登 場したベルディが絶賛を浴びました。彼のオペラの特徴は、題材を空想や観 念の中にではなく、生身の人間そのものに求めたことです。物語や装置など より独唱者の技量や歌自体のメロディーを重要視しました。 このほか、「蝶会夫人」で有名なプッチーニなどが20世紀初頭にかけて 活躍し、ドラマチックで明るくわかりやすいストーリーを歌手が高らかに歌 い上げるといった作品が、数多く残されました。イタリア独特の発声法-ベ ルカント唱法で耿われるオペラや重唱は、まさにイタリア・オペラの醍醐味 です。 この頃、イタリアとドイツの狭間に当たるフランスやオーストリアで人気 を得たものに、オペレッタがあります。オペラが大真面目に劇的世界を構築 したのに対し、オペレッタは喜劇的な要素や踊りをふんだんに盛り込み、肩 の張らない賑やかな舞台を繰り広げました。フレンチカンカンで有名な「天 国と地獄」を作ったオッフェン・バック、ウィンナ・ワルツの巨匠、ヨハ ン・シュトラウス2世などが有名です。 さて、急進派のところでも触れたワーグナーは、劇全体に一貫して音楽が 流れる無限旋律に加え、動機(モチーフ)という方法を考え出しました。こ れは、登場人物や観念を、特定の旋律で表すもので、示導動機(ライトモチ ーフ)と呼ばれています。ワーグナーは劇の進行を、旋律によって示そうと したのです。したがって、ワーグナーのオペラでは、これまでになくオーケ ストラの位置づけが重要になっています。 ワーグナーはまた、音楽理論の面でも革新的な試みをしました。それは調性を崩すというスタイルです。代表的なものが「トリスタンとイゾルデ」 の前奏曲で連続する和音に表現されています。調性とは、ひとつの曲を八長 調なら八長調で一貫させるという約束事のことをいいますが、無謌生はこの 決まりを離れ、まったく自由な音の連続で作曲するというものです。この手 法をとり入れる作曲家が主流を成す20世紀の音楽は、ワーグナーの革新的 なスタイルを引き継いでいるといってもよいでしょう。

ヨハネス・ブラームス(ドイツ)

ヨハネス・ブラームス(1833~1897)は、生涯を通じて象徴的なものに憧 れ続け、それを糧として地道な努力を積み重ねた作曲家でした。北ドイツの ハンブルクにあった生家は、貧困の真っ只中にありました。父は音楽を志し ていましたが、生計を立てるのすらむずかしく、無料でピアノを教えてくれ る教師、コッセルに息子を託したといいます。幸いなことにコッセルは、こ の土地一番のピアノ教師で、音楽のほかに学校で習う勉強まで教えました。 その甲斐あって、ブラームスは10才のとき、音楽家としてデビューし、コ ッセルの師にあたるマルクスゼンに教えを請うようになります。ブラームスは、当時華やかな脚光を浴びていた急進派の音楽には目もくれず、伝統的なドイツ古典派の音楽に剴聞した作品を作り続けました。バッハ やベートーベン、そしてモーツァルトの業績を前にして、自分の為すべきこ とは、ただ純潔な気持ちで音楽に取り組むことだと考えたのです。彼は、先 達に敬意を払ったのと同様、女性に対しても理想化の激しい人物でした。実 績のないブラームスを誉めたたえ世に送り出した、シューマンの未亡人クラ ラに対する思いは、恐らく終生プラトニックだったろうと推測されています。 絶対的なものを理想として抱き、それに近づくために努力を積む姿勢は、否が応にも慎重なものとなり、交響曲 第1番八短調は、完成までに21年もの歳月を費やしています。しかし、謙 虚な姿勢であった反面、終生舌鋒鋭い皮肉屋として知られていたといいます から、偶像をとり込み音楽に昇華させる能力に優れていたのかもしれません。 代表作としては、交響曲第2番二長調、第3番へ長調、第4番ホ短調、バ イオリン協奏曲二長調などがあります。

アントン・ブルックナー(オーストリア)

最近の物言いでいえば、アントン・ブルックナー(1824~1896)はなか なかアブない人物だったようです。オーストリアで生まれた彼は、学校教師 を父にもち、幼い頃からオルガンを弾き、少年聖歌隊に所属したのを皮切り に、いくつもの音楽教師や教会のオルガン奏者などの役職を兼任して、終生、 多忙な立場にありました。いわゆる堅物だったのですが、その一方で、死体 や骸骨に異常な興味を示し、わざわざ見にいくなど、死に対する執着をみせていたといいます。また、窓や壁の模様など、何によらずすべて数を数えないと気がすまないというやっかいなクセもあり、さらに服装は極端に田舎臭 く、いつも常識からわずかにずれた奇矯な行動をとりがちだったといいます。 ブルックナーは、作品の内容からすると後期ロマン派のなかでは保守派に 属しますが、実は相対立する急進派の雄、ワーグナーに心酔し、交響曲第3 番を献呈したほどのワグネリアンでもありました。つまり、熱狂的に崇拝す る対象とは正反対の音楽を作り続けていたということになります。心理学者 が興味をもちそうな人物ですが、彼の交響曲の特徴は、とにかく長いこと。 1楽章が、古典派の曲の1曲にも当たるほどで、どの作品もさしたるドラマ 性や起伏のないまま長時間続きます。それでも根強い人気があるのは、がっ ちりと構築された重厚な音の世界に浸るうち、心が癒されるからかもしれま せん。温かい風呂に長時間浸かってたっぷりと汗をかいたような充実感に満 たされるのです。ブルックナーを聴くときは、疲れていて何もしたくないと きなどがよいようです。 おもな作品には、交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」、第7番イ長 調、第8番八短調などがあります。

グスタフ・マーラー(オーストリア)

ユダヤ民族は、突然変異的に天才を輩出するといわれます。フロイトやア インシュタインがよく引き合いに出されますが、作曲の世界におけるマーラ ーも、ある意味でこの伝説の一翼を担っています。彼の音楽は、それまでの 音楽の伝統とは異なる、新たなアイディアに満ちてます。新しく世に出るも のは、たいてい発表時に悪しざまな批評を受けるものですが、マーラーの作 品も例に漏れず、品性下劣で捕えどころのない、混乱した作品だと嘲られて いました。その原因は、マーラーの交響曲が、ベートーベンの作品に代表さ れるような、“主題が理論的に破綻のない構成のうちに展開して、クライマ ックスへ達し、終わる”という従来の経過をとらないことにありました。古 典派の絶対音楽が起承転結をもつ一大叙事詩ならば、マーラーの音楽は、以 降の世界を暗示するような、無意識的、連想的な組み立てで展開していくの です。 曲中、唐突に現れるメロディーは、当時の人会にとって権威の外にあった 世俗的な音楽であったり、民族音楽であったりします。また、ハープや数会 の打楽器を組み込むなど編成も突飛で、さらに管楽器を軍楽隊のように使う など、当時の聴衆にとっては、興を削がれることこのうえないものだったよ うです。 グスタフ・マーラー(1860~1911)は、現在のチェコ共和国のカリシュ トで生まれました。幼少の頃からピアノに卓越した才能をみせ、指揮者とし てトントン拍子に出世、37才の若さでウィーンの最高峰、ウィーン宮廷歌 劇場の指揮者となり、数会の名演を披露しました。彼の名声は、おもに指揮 者としてのものでしたが、彼自身は、本業を作曲家と考えていました。 マーラーの音楽は、彼がユダヤ人であったことから、ドイツにおいて一時 まったく禁止されるという憂き目にあっています。彼自身も、ユダヤ人迫害から逃れてアメリカに活動の場を求めた時期がありました。仕事の面でも、民族・宗教的な面でも、彼のアイデンティティーはいつも引き裂かれる運命 にあったようです。 おもな作品に、第8番変ホ長調「千人の交響曲」、第9番二長調、「大地 の歌」、歌曲集では「さすらう若人の歌」「なき子をしのぶ歌」などがあります。

フランツ・リスト(ハンガリー)

前期、後期を通じてロマン派の時代におけるフランツ・リスト (1811~1886)の果たした功績は、音楽そのものにとどまらず、広く音楽界 全体に及んでぃます。「私はピアノのパガユーニになる」と公言したほどの 演奏技量に加え、作曲の面でも豊かな才能を惜しみなく発揮したリスト。女 性に熱狂的なファンを数多くもち、不倫や駆け落ちといった、華やかな恋愛 のエピソードにも事欠きません。すらりと背の高い美男子で、超絶技巧を披 露する最中、肩までかかる金髪がはらりと揺れたりすると、少女や御婦人方 は溜息をもらしたとか。のちに、ワーグナーの二番目の妻となったコジマは、 リストの不倫相手、マリー・ダグー伯爵婦人とのあいだに生まれた娘でした。 しかし、リストは単に自分勝手なドン・ファン的人物ではなく、男性に対 しても情が篤く、多くの人から信頼を寄せられる卓越した人物でした。彼が、 出資したり、あと押しして功績を世に残した音楽家は数知れないといわれま す。たとえば、ペルリオーズには公私ともに物心両面での援助を惜しまず、 ピアニストとしての好敵手ショパンをパリ社交界の花形に押し上げ、国民楽 派の音楽家たちを励まして各方面に推薦して回りました。 彼は、精神的にもタフな逸材で、多くの音楽家だちと親交をもち、ヨーロ ッパ中を股にかけて活躍、公私ともに多くの業績を残しました。75才と長 寿でもあり、後期ロマン派の時代にも足跡を残しています。そんなリストの 自慢は、12才のとき、ベートーベンの前で巨匠の難曲を見事に演奏してみ せ、気むずかしいベートーベンを微笑ませ、接吻までしてもらった、という エピソードでした。 代表作として、交響詩「前奏曲」、ピアノ・ソナタロ短調などがあります。

リヒャルト・ワーグナー(ドイツ)

19世紀前半の巨匠がベートーベンなら、後半においてはリヒャルト・ワ ーグナー(1813~1883)がその位置を占めるでしょう。ギリシア文学やシ ェイクスピアを読み、12才で文学の創作を始めた早熟な少年が作曲家にな る決心をしたのは、わずか15才。しかし、彼が実際に音楽を学んだのは、 18才のとき、ライプチヒの聖トーマス教会の合唱長に教えを受けたのがすべ てでした。したがって、彼の音楽は、目標としていたベートーベンの楽譜を、 仔細にわたって研究するといった独学によるものでした。 芸術家と呼ばれる人会は、多分に妄想のなかからエネルギーを受け、目指 す作品に猪突猛進して創作を為すというタイプの人が多いようですが、ワー グナーもその典型ともいえる人物。金銭感覚がまったくなかったのも、出世 払いする身になることを信じて疑わなかったからだといいます。また、ドレ スデンの革命のときには、革命側に立ってアジ演説をぶち投獄されますが、 奇跡のような脱右娜りを演じ、リストのはからいでスイスに逃げたというエピ ソードも伝えられています。 人を幻惑させるようなカリスマ性を備えた人物だったことは、バイエルン 国王のルードウィッヒ2世をパトロンにしてしまったことが証明しています。 国王は、莫大な費用のかかるワーグナーのオペラに止めどなく出費し、狂王 とまで呼ばれますが、調子にのったワーグナーは、政治にまで口出しして追 放されてしまいます。しかし、彼への援助金はそのまま支払われ、リストの 娘コジマを新たな妻として迎え、豪勢な暮らしを続けたといいます。毒気の 強い人物像ですが、型破りな人生はそのまま音楽の革新的な業績に結びつい ており、個人と芸術との関わりについて興味をそそられる存在です。代表的 な歌劇には、20年の歳月を費やして完成された「ニーベルングの指輪」「さ まよえるオランダ人」「神会の黄昏」などがあります。

リヒャルト・シュトラウス(ドイツ)

日本でシュトラウスといえば、ほとんどの人が、ワルツのシュトラウス一 家を思い浮かべます。音楽史上では偉大な功績を残すリヒヤルト・シュトラ ウス(1864~1949)ですが、どうも日本での知名度は低いようです。ある人 に言わせると、名門の出で、円満な家庭をもち、破綻のない人生を送ったと ころが日本人好みでないのだそうです。なるほど日本人は“運命”とか“悲 愴”とかいう標題に強く心惹かれるところがあります。しかし、実際のとこ ろは、シュトラウスの音楽を紹介する土壌が、これまでの日本には育ってい なかった、というのが妥当でしょう。集客を考慮すれば、ベートーベンやモ ーツァルトを中心とした作品に偏るのは、しかたのないところです。しかし、 シュトラウスの音楽は、幻惑的で変化を含み、喜怒哀楽、知的ウィットに富 み、耳の肥えてきたこれからのリスナーの人気を得るに十分な内容を備えて います。 彼は、19世紀後半から第2次大戦後まで生きた作曲家ですが、主要な作 品は、40才半ばの1912年までに書かれています。これは第1次世界大戦が 彼の人生に暗い影を落としたからです。シュトラウスは、ベルリン宮廷歌劇 場、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者を務めた後、ナチスの音楽局の総裁に任命されました。しかし、反ユダヤ政策に 抵抗して辞任し、亡くなるまでの40年間をアルプスの高原にある山荘にこ もって過ごしました。おもな作品として、交響詩「ドン・ファン」「ツァラ トゥストラはかく語りき」「ドン・キホーテ」、楽劇「サロメ」、歌劇「ばら の騎士」などがあります。

シュトラウス・ファミリー(オーストリア)

音楽の都ウィーンの1年は、ワルツで明けます。ウィーン・フィルハーモ ニーのニューイヤー・コンサートは、今や世界中の人会が番組の中継を観る、 恒例の行事になりました。 いつもは、マニアックにクラシック音楽を楽しんでいるファンさえも、こ のときばかりは、いわゆる通俗的なウィンナ・ワルツに触れ、意に反して鳥 肌が立つのに驚いたりするものです。 シュトラウス一家のなかで「ワルツの父」と呼ばれるヨハン・シュトラウ ス(1804~1849)は、19世紀の前半、ワルツやポルカなどの舞踏曲をレパー トリーとする楽団を率いて、ヨーロッパ中を巡りました。代表作には「ラデ ッキー行進曲」などがあります。 彼の長男が“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス(1825~1899)です。 父のウィンナ・ワルツをさらに洗練させ、アメリカにも進出して世界的な 名声を得ました。「美しき青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「皇帝円舞曲」「春の声」のほか、オペレッタの「こうもり」「ジプシー男爵」などが有名です。 次男のヨーゼフ・シュトラウス(1827~1870)は、ワルツとポルカを得意 とし、「天体の音楽」や「かじ屋のポルカ」などの作品を残しています。シ ュトラウス・ファミリーは3世代にわたってウィンナ・ワルツの中心を成し、 合わせて1500曲もの作品を残しています。 森の都が育んだ、自然を彷彿とさせる音楽は、いつ聴いても清会しく、春 に行われるデビュタント(社交界へのデビュー)の舞踏会の華やかさを思わ せる旋律は、聴く人に豊かな夢を運んでくれます。

19世紀のイタリア・オペラ

音楽史上、ドイツを中心にめまぐるしい展開をみせたこの時代、イタリア においては、16世紀以来連綿と続いてきたオペラの分野で、華やかな作品 が数多く生まれました。 イタリア・オペラは、神話などに題材をとった真面目で堅い「オペラ・セ リア」と、風刺や喜劇的な要素を混じえた「オペラ・ブッファ」に大きく分 けられます。前者は、黎明期から18世紀頃まで、カソリックの首都・ロー マを中心に盛んでしたが、18世紀後半からは、日常に題材を求める後者の ほうが主流となりました。これらのオペラに欠かせないのが、ナポリで発展 したイタリア式発声法、ベル・カント唱法です。現在大活躍の3大テナーの ひとり、イタリアのパヴァロッティに代表されるような、明るく軽やかな発 声で高らかに歌い上げるものです。 19世紀のイタリア・オペラの代表的な作曲家に、ジョアッキーノ・ロッ シーニ(1792~1868)と、ガエターノ・ドユゼッティ(1797~1848)がい ます。 父が管楽器奏者、母がソプラノ歌手という音楽一家に育ったロッシーニは、 14才で最初のオペラを作曲、30代の頃には、フランス国王から“国王の第 一作曲家”の名誉ある称号を賜り、19世紀前半のヨーロッパでは、並ぶ者 のない存在だったといいます。「セビリアの理髪師」など軽妙な作品で知ら れますが、オペラ・セリアの「ウィリアム・テル」においては、それ以降に 発展するイタリア・ロマン主義オペラの端緒となりました。ロッシーニは、 この作品を最後に、36才の若さでオペラから謎の引退をします。おそらく、 10数日でひとつのオペラを書き上げるような、仕事詰めの毎日に嫌気がさし たというのが真実らしく、以降はパリ郊外で社交と散歩を中心とした、悠会 自適の隠居生活を過ごしました。それでも巨額の遺産を残したということで すから、当時のヨーロッパで彼のオペラがいかにもてはやされていたかがう かがわれます。 ドユゼッティは、オペラの内容より、早書きと多作で知られる作曲家です。 2時間ほどの作品なら、作曲に要する時間はわずか1~2週間、25年間に 70曲ものオペラを書き上げました。 このほか、長崎を舞台としたオペラ「蝶会夫人」で、日本でもその名が知 られているのがジヤコモ・プッチーニ(1858~1924)です。「ある晴れた日 に」のメロディーでもわかるとおり、たぐい稀なメロディーメーカーとして 知られています。

ジュゼッペ・ベルディ(イタリア)

イタリア最大のオペラ作曲家で、「歌劇の父」と呼ばれるのがジュゼッ ペ・ベルディ(1813~1901)です。ベルディは、生涯に26の珠玉の作品を 残しています。多作が重んじられたイタリアの歌劇』作曲家のなかにあって、 ベルディの質の高さは群を抜いており、世界における上演回数も大変な数に のぼります。 小さな町の食堂を営む家庭に育ったベルディは、他の作曲家たちのように 英才教育を受ける機会に恵まれませんでした。19才で挑んだミラノの音楽 学校の試験にも落ちています。しかし、庶民のあいだで人生の機微を隕のあ たりにしていたベルディは、聴衆の求める音楽を提供し、涙を誘ったり、笑 わせたりすることに優れていました。 ベルディが生まれた頃の生地パルマは、ナポレオンのフランス支配下にあ り、政情不安定ななかで幼児期を過ごしたようです。この影響からか、彼は、正義感と愛国心に燃える人物で、40代後半 には国会議員にまでなっています。音楽のた めに一肌脱ごうという心づもりもあったよう ですが、退屈な議会が続く生活にはうんざり したらしく、答弁にメロディーをつけて暇を 潰していたとか。最初の結婚では、子ども2 人と妻を次会に亡くしましたが、のちにスカ ラ座のプリマ・ドンナと再婚し、87才とい う長寿を幸福のうちに全うしました。代表作 として、スエズ運河開通の記念にエジプト政府から依 頼された「アイーダ」「オテロ」などがあります。

119世紀フランスの音楽

当時のフランスでは、リリック・オペラと呼ばれる叙情歌劇が発展しまし た。代表的なものとして、シャルル・グハ(1818~1893)の「ファウス ト」、ジョフレジュ・ビゼー(1838~1875)の「カルメン」など、日本でもよ く知られた作品があります。これらは、伝説や物語を題材とし、美しいメロ ディーを配した優雅な作品が多く、大作のグランド・オペラと比べると小規 模で気軽に楽しめるオペラです。 1871年、フランスでは音楽芸術の振興を図るため「フランス国民音楽協 会」が設立され、音楽学佼も作られました。この運動の中心となったのがセ ザール・フランク(1822~1890)と、カミーユ・サン=サーンス (1835~1921)です。フランクは、派手な歌劇や標題音楽全盛の時代にあっ て、伝統的なドイツ音楽の精神にもとづいた室内楽や交響曲を発表し、フランス近代音楽の父と呼ばれています。 サン=サーンスは、交響詩「死の舞 踏」「動物の謝肉祭」などの作品で有 名です。ピアニスト、オルガユストと して優れ、さらに詩人、画家、天文学 者、哲学者としても活動する多才な人物でした。このほか、日本でよく演奏されるこの時代の作曲家に、ガブリエ ル・フォーレ(1845~1924)がいま す。いずれも個性的な作曲家たちです が、共通してフランス的な詩的香り漂 う世界を表現しています。

民族楽派の音楽

19世紀ヨーロッパの最大の事件は、フランス革命でしょう。以降、それ までは誰も考えもつかなかった「人権」や「平等」の概念が広がっていくの です。この思想をとり入れて、自国の民族の財産を音楽に表現しようとした 作曲家たちを「民族楽派」または「国民楽派」と呼んでぃます。

民族楽派5人組

19世紀前半、ロシアに初めてロシア語のオペラが誕生しました。グリン カの「皇帝に捧げた命」は、ヨーロッパの辺境を意識し、ロシア貴族たちの卑屈さに異議を唱えるものでした。これに 誘発されるようにヨーロッパの民族楽派の先鞭をとったのが、ロシア5人組 と呼ばれる作曲家たちでした。 5人の作曲家たちは、ヨーロッパ生まれの理論にもとづく、アカデミック な音楽教育自体に異を唱え、独自のユニークな作曲方法を追究しました。 しかし、この試みは、必ずしも成功したとはいい難く、現在までも演奏さ れる作品を残した作曲家は、モデスト・ムソルグスキー(1839~1881)、リ ムスキー・コルサコフ(1844~1908)、アレクサンドル・ボロディン (1833~1887)の3人だけで、ミリー・バラキレフとセザール・キュイは、 ほとんど顧みられることはありません。 最初に注目を浴びたのは、ボロディンでした。医大の教授の本職にいそし む一方、交響詩「中央アジアの草原にて」などの作品を残しました。また、 もっともロシア的といわれるのがムソルグスキーです。傑作オペラ「ポリ ス・ゴドノフ」と交響詩「はげ山の一夜」は、ともに卓抜した描写力が特徴ですが、管弦楽理論には疎かったことから、両曲ともリムスキー・コルサコフが加筆しています。また、かの有名なピアノ組曲「展覧会の絵」は、のち にラベルが管弦楽に編曲して世界的に有名になったものです。 リムスキー・コルサコフは、5人のなかでもっとも作曲技術に秀でており、 管弦楽曲「シエヘラザード」、交響詩「スペイン奇想曲」などの名曲を残し ました。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(ロシア)

5人組がロシアの民族性を急進的に追究する音楽に邁進していた頃、西欧 の伝統的な作曲技法を重要視し、交響曲やバレエ音楽で高度な作品を世に問 うたのがピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~1893)でした。 フランス貴族の亡命者を毋の家系にもつチャイコフスキーは、幼少の頃から 繊細で感受生の強い面をみせていました。当初は法務省に勤めますが音楽へ の情熱断ち難く、21才になってから音楽学校に入学して、音楽家としての 道を歩み始めます。 ロシア的な叙情性やメランコリックな曲想が日本でも人気ですが、チャイ コフスキー当人がこの音楽を体現するような性格の持ち主だったことが、 様会な逸話に残されています。 現在では評価が高い数会の作品も、発表当時はすべてが高い評価を受けた わけではありません。「白鳥の湖」の初演時には、臨席したアレクサンドル 2世が中座してしまうなど、大失敗と酷評されました。 当時のロシアでは、5人組に代表される民族楽派と、西欧の音楽理念をと り入れるチャイコフスキーなどのあいだに対立関係もあり、神経質な彼は終 始、ひどい頭痛や不安に悩まされていました。同性愛が原因で、教え子との 結婚が破綻し、入水自殺を試みたり、金持ちの未亡人フォン・メック夫人と 14年にわたり文通を続けて金銭的援助を受けるなど、まさに謎めいた人生を 送ります。 交響曲第6番口短調「悲愴」初演の直後、生水を飲んだためにコレラで亡 くなりますが、これについても同性愛発覚を恐れての自殺であるという説が まことしやかに唱えられた時期もありました。現在は、史料にもとづいた反 論も出、やはり病死であったというのが真実とされています。 代表作には、交響曲第4番へ短調、第5番ホ短調、「イタリア奇想曲」、 バレエ音楽「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」、ピアノ協奏曲変口短調、 面剥「エフゲユー・オネーギン」「スペードの女王」などがあります。

セルゲイ・ラフマニノフ(ロシア)

セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)は、ロシア貴族の由緒正しい家 系の出身で、ペテルブルグ皆楽院とモスクワ音楽院でピアノを学びました。 ピアノ・コンチェルト(協奏曲)のメロディーぱ、あまりにも有名ですが、 この時代のピアニストとしては大変保守的な音楽性で、モスクワ音楽院を卒 業した革新的なスクリャービンと好対照とされました。 ラフマニノフの別海で必ず使われるのが「ロシア的憂愁」という表現です。 農地解放で生家が没落し、最初に発表した「交響曲第1番」が酷評されて神 経衰弱に陥るなど、波乱の生活を送った芸術家自身の背景が、そのまま音楽 表現に垣間見えます。 1917年の十月革命時にロシアからスイスに亡命し、さらにアメリカに渡 って永住、ヴィルトオーソ(巨匠的演奏家)の名をほしいままにしました。 忙しい演奏活動の合間を縫って作曲を続け、ビバリー・ヒルズの自宅で側圧 を閉じました。おもな作品に、ピアノ協奏曲第2番八短調、第3番二短調、 「パガニーニの主題による狂詩曲」などがあります。

ベドルジーハ・スメタナ(チェコ)

ベドルジーハ・スメタナ(1824~1884)が生まれた頃、生地ボヘミアは 未だオーストリアの統治下にあり、民族の自由を訴える運動が高まりつつあ りました。ビール製造業者の家に生まれたスメタナは、時代の流れに呼応す るように、民族色の濃い作品を志すようになっていきます。歌劇「売られた 花嫁」は、登場人物の設定や衣装などに、チェコの民族生が溢れた名作で、 彼の出世作となったものです。 日本でも有名な曲「モルダウ」は、民間の伝説と自然の美しさを歌い上げ た連作交響詩「わが祖国」の第2曲です。 終生病気がちで、とくに50才のとき完全に聴力を失ってからは、精神障 害を来すなど悲惨のうちに一生を終えました。晩年、耳の調子がよいときに、 惜しむようにピアノを弾き続けたというエピソードは、心を打ちます。

アントニン・ドボルザーク(チェコ)

宿屋と肉屋を営む貧しい家庭に生まれたアントユン・ドボルザーク (1841~1904)は、音楽家を目指し、プラハの劇場でヴィオラを弾きながら 糊口を凌いでぃました。彼をこの境遇から救ったのは、オーストリアで奨学 金の審査をしていたブラームスでした。ドボルザークは30代半ばにしてや っと認められ、念願だった作曲家への道を歩み始めたのです。 作曲は、ほとんど独学だったとされていますが、泉のようにメロディーが 湧き出る天才肌の人で、チェコの民族的なリズムやメロディーが独特の素朴 さと自然の雄大さを感じさせてくれます。 無類の汽車好きだった彼は、ニューヨークの音楽院の院長として赴任中、 汽船に興味を移して熱中したとか。趣味らしいものはこれひとつで、こつこ つと音楽に打ち込む、しごく真面目な人物だったようです。この逸話からも うかがわれるように、家庭的で規則的な生活を好み、晩年はプラハ音楽院の 院長やオーストリアの終身上上院議員を務めました。 代表作には交響曲第9番ホ短調「新世界より」、「スラブ舞曲集」などが あります。

エドワルド・グリーグ(ノルウェー)

エドワルド・グリーグ(1843~1907)は、ノルウェーにおいて最初に国 際的人気を得た作曲家です。ノルウェーの民族音楽をとり入れた北欧の風土 の香り溢れる、素朴で叙情的な作風が特徴です。 ノルウェーの劇作家、イプセンの戯曲につけた音楽がよく知られており、なかでも「朝の気分」や「ソルベイグの歌」は、映画 やテレビドラマなどでよく使われます。

シャン・シベリウス(フィンランド)

シャン・シベリウス(1865~1957)が、本格的に音楽の勉強を始めたの は20才になってからでした。ヘルシンキ音楽院からベルリン、ウィーンへの留学を経て、「クレルボ交響曲」で大成功を納めました。 彼の作風は、フィンランドの自然や風土に培われた精神陛や心性を作曲に 反映させるもので、交響詩「フィンランディア」、伝説曲「トゥオネラの白 鳥」、組曲「カレリア」などにその世界を知ることができます。

スペイン・イギリス・アメリカ

スペインでは、バイオリンの名手が生まれました。「チゴイネルワイゼン」 の作曲家としても知られる、パブロ・デ・サラサーテ(1844~1908)です。 幼少の頃からパリなど各地を演奏して回り、天才少年として讃えられました。 作曲家では、「スペイン組曲」のアルベニス(1860~1909)、「ゴイエスカ ス」でゴヤの絵を表現しようとしたグラナドス(1867~1916)、バレエ音楽 「恋は魔術師」のファリャ(1876~1946)などがいます。これらの作品には、 いずれもフラメンコのリズムをはじめとするスペインの民族音楽がとり入れ られています。 イギリスでは、行進曲「威風堂会」を作曲したエルガー(1857~1934)、スコットランド民謡をもとに「グリーンスリーブズ幻想曲」を作曲したホーン・ウィリアムズ(1872~1958)が知られています。 アメリカにおいては、フォスター(1826~1864)が、民謡や黒人霊歌を 下敷きに、開拓時代の風土や生活感を盛り込んだフォークソングを多く生み 出しました。このほか、ピアノの小品「森のスケッチ」などを作曲したマク ダウェル(1861~1908)、また、スーザ(1854~1932)は、ブラスバンド のレパートリーに必ず登場する「星条旗よ永遠なれ」の作者として知られて います。

文明開化、明治時代の西洋音楽

徳川幕府による長い鎖国が解かれると、世は文明開化の時代を迎え、西洋の文化が怒濤のように流れ込んできました。「鹿鳴館」などの社交場が作られ、そこでは、洋服に洋髪の婦人が西洋音楽にのって踊る姿が見られました。これ こそ、新しい時代を象徴する、希望に満ちた光景だったことでしょう。 明治維新から10数年後の明治13年(1880)、明治政府は文部省のなかに「音楽取調掛」を設置しました。音楽取調掛は、西洋音楽にもとづく音楽教育を始めるため、小学校の教科書を編集し、「小学唱歌」を数多く作り出しました。今日でもよく知られている、「蛍の光」「仰げば尊し」などは、このとき作られたものです。 明治15年には、同部署主催の演奏会も開かれ、これが日本人による最初の 公開演奏会となりました。以降、西洋音楽は、ハイカラな趣味として人気を得い「浅草オペラ」など、一般の人会にも西洋音楽が浸透していきます。 音楽取調掛は、のちに「東京音楽学校」を開校し、現在は東京芸術大学音楽1学部になっています。

19世紀後半、べJレ・エポック前夜のフランス

印象派の画家たちに始まる、パリの美術や文学の一大ムーブメントは、音 楽の世界にも同様の激動をもたらしました。 主観や感覚を重んじる印象主義と、観念や思想を寓意や象徴で表現しよう と試みる象徴主義とが、そのまま、斬新な和声法やイメージを最優先する表 現にもち込まれました。 ドビュッシーやラヴェル、フォーレなどによって描かれる音楽の世界は、感動や情動を表現するのではなく、感じ方そのものを音楽に置き換える方向へと進んでぃきます。 また、これに異国趣味が加わり、表現にとり入れられる題材は、さらにその範囲を広げていきます。ゴッホなどの画家たちが、日本の浮世絵に影響を受けたのは有名ですが、1889年にパリで開かれた第1回の万国博覧会は、パリにひしめく芸術家たちに、アジアやアフリカの風土を反映した、土着的で民族的な表現を紹介し、多くの霊感を与えたのです。

クロード・ドビュッシー(フランス)

クロード・ドビュッシー(1862~1918)は、パリ育ち、マラルメやボードレールといった、ベル・エポック(祝祭の時代と呼ばれた 1920年代)の芸術家だちと親交を深くしながら、近代フランス音楽に改革をもたらしました。音楽理論を無視する大胆な発想を教師に非難されても、「自分の楽しみに従う」と言い放ち、自由な発想と自らの皆既を信頼した作曲家です。彼の音楽は、あり余る才能と、その無限ともいえる自由な発想から贅沢な音楽と讃えられています。ドビュッシーの生きた時代のパリは、印象派の画家や文学者がなだれ込み、ボヘミアンと呼ばれる自由な芸術家集団を形成していました。彼は、そこで他民族の培った未知なる音楽的発想を貪欲に剛乂し、さらに文学のなかにみる深い感性の囁きにも耳を澄ませて、感じとったものすべてを表現するため の音楽を創造したのでした。 芸術家としてのドビュッシーは、大きな足跡を残した巨人ですが、芸術家 にありがちな欠陥も多く兼ね備えた人物でした。生涯、気ままに借金を続け たことや、利用するだけで真実のない女性関係は、しばしば常識的な人会の 眉をひそめさせました。実際、ドビュッシーに捨てられた女性の何人かは、 自殺を試みています。彼は、神経過敏で人嫌いという、やや陰気な性格だっ たといいますから、他人に気を遣わず、革新的な音楽を作ることだけに熱中 した、生まれついての芸術家だったのでしょう。 代表作には、マラルメの詩にもとづく「牧神の午後への前奏曲」、歌劇「ペレアスとメリザンド」などがあります。

モーリス・ラヴェル(フランス)

モーリス・ラヴェル(1875~1937)の父は、石油で動くエンジンを発明したエンジニアであったそうです。彼の音楽に、設計図を思わせる立体的な香りが感じられるのは、そういった由縁からかもしれません。 ドビュッシーにわずかに先がけて、印象主義の音楽を始めたラヴェルは、 同じメロディーを38回も繰り返す「ボレロ」で大変有名です。 かつて誰も考えつかなかったこの形式は、38回の繰り返しのすべてに、 少しずつ楽器の編成を変えていくという方法で、世界中をアッといわせまし た。この例からもわかるとおり、彼の才能は、とくに管弦楽の作曲に輝くも のをもっています。ラヴェルの音楽は、演奏家が、存分に腕を揮えることか ら、オーケストラのメンバーにも人気が高いものだそうです。 ラヴェルは、背丈が150cm余りと大変小柄で、そのコンプレックスのため か大変なお洒落でした。演奏旅行のたびに、嫁入り道具かと思うほどの衣装 を持ち歩いたといわれます。また、卓抜したピアノ演奏の腕をもちながら、 「見せ物のようでたまらない」と、演奏活動を拒んだとか。しかし、心に秘 めた闘志と自信は強く、創作における各自の個生を尊重した人物でした。 民族舞踊のリズムをとり入れた「ボレロ」や「スペイン狂詩曲」、歌劇 「スペインの時」など、スペインの音楽に題材を求めたものが多いのは、毋親がバスク地方の出身だったことに由来します。また、子どもの世界にも親しみをもち、童話にもとづくバレエ「マ・メール・ロワ」や、家具や動物が人のように活躍する歌劇「子どもと魔法」など、空想的な作品にも好んで取り組みました。見たこともない景観や、行ったこともない場所を題材として も、皆を納得させるだけの作品を作り上げた、豊かな想像力に恵まれた作曲 家だったのです。

ガブリエル・フォーレ(フランス)

サン=サーンスの弟子で、ラヴェルの師という立場から推測できるとおり、 ガブリエル・フォーレ(1845~1924)は、ロマン派から近代フランス音楽への移行期に活躍した作曲家です。 「国民音楽協会」の一員として、フランス音楽の発展、振興に打ち込み、宗教音楽と歌曲、ピアノ曲の分野で数多くの傑作を残しました。サロンで名声を得たフォーレは、51才のとき、マドレーヌ寺院のオルガユストと なり、60才でパリ音楽院院長になります。音楽院を卒業していない者が院 長になったのは、フォーレが最初でした。フォーレの音楽は、心を癒す効果が高いように思われます。「レクイエム」に代表され る、崇高に響くハーモニーの世界は、精神のもっとも輝かしい部分をとり出して作り上げ た世界を現出させます。フランス風のエスプリや繊細さをふんだんに表現した作曲家とい えるでしょう。 代表作には、歌曲「夢のあとに」、童話作家メーテルリンクの戯曲の音楽として書かれ た「ペレアスとメリザンド」などがあります。

20世紀の音楽

20世紀は戦争の時代でした。近代兵器を駆使した2度の世界大戦は、一 般の人会までをも、狂気の渦へと巻きこんでいきました。 この時代に登場した音楽は、時代の激動を反映して、かつてない激しい変 化をみせました。 活動の制限のあるロシアから、天才興行師アギレフ率いるロシアバレエ団 が、自由な別天地を求めてパリヘやってきました。この舞台に、コクトーや ピカソをはじめとする最高の芸術家が結集、革新的な作品を次会と発表して いました。バレエの世界に参加した音楽家たちは、ストラビンスキー、ラヴ ェル、ドビュッシー、ファリャ、プロコフィエフなど。とくにコクトーの台 本、ピカソの舞台美術にサティが音楽を担当した「パラード」は、シュール レアリスムの代表的作品といわれています。

近代、現代の音楽は難解か?

ベートーベンやモーツアルトの音楽を聴いて、不快感や、苛立ちを覚える 人はほとんどいないでしょう。しかし近代や現代の音楽を聴くと、訳がわか らない、奇妙な音に聴こえるという人がいます。なぜなのでしょうか。 ひとつには、20世紀にはいってからの音楽は、人会の口ずさめるメロデ ィーをもたなくなったこと。さらに、楽しく踊ったり、宗教的な気分に浸っ たりという、娯楽のための音楽表現から離れていったためなのです。 それまで人類が経験したことのない科学と文明の発達のなかで、音楽家た ちは、未来への不安や、一生かかっても解明できないほど奥采い人間の心理 について考えるようになりました。哲学者ニーチェが「神は死んだ」と言っ たように、宗教観は変わり、写真や、映画などマス・メディアの登場が、か つての音楽では表現しきれないほどおびただしい量の喜怒哀楽を、人会の前 に現わし始めました。 この時代の音楽は、人間が体験したすべての痛みや苦しみ、迷いまでをも 包括しようとします。そこには、理論立った音によって構築される、予定調 和的な安心感は期待できません。しかし、音楽が常に時代を映す鏡であるな らば、自分が生きる時代の表現に、耳を傾けてみる価値はあるでしょう。

こだわりの音楽から生まれた恩恵

音楽とは何か」と改めて聞かれると、返答に困るものです。しかし、それを徹底的に問い、しかも答えを出そうと試みた人会がいました。 たとえば、1914年にイタリアのミラノで発表された「騒音主義」の音楽。 電車や自動車の音、あるいは群衆のざわめきなどを純粋な音楽と捉え、これに 似た音を「騒音楽器群」という電気機械を使って表現したものです。 続いて「打楽器主義」と呼ばれる音楽が誕生します。こちらは工場の機械などが出す騒音を、打楽器によって再現しようとしたもの。そして第2次大戦後になると、半音よりさらに狭い音程を求める「微分音主義」が登場します。全音や半音だけでは、自己の音楽を完璧に表現できないと考えた作曲家たちは、わざわざ4分の1や6分の1の音が出るピアノやギターを創作しました。 これらの試みですが、実は現在の私たちの文化に大いに貢献しています。たとえば、真に迫った劇音楽や効果音の制作には騒音主義や打楽器主義が、また電子楽器のシンセサイザーの発展には、微分音を追究した作曲家たちの科学的な理論が、大きく役立っているのです。

イーゴル・ストラビンスキー(ロシア)

ロシアの作曲家イーゴル・ストラビンスキー(1882~1971)は、ロシ ア・バレエの音楽「春の祭典」が有名です。しかし初演時は、あまりに斬新 なリズムと踊りが合わず、客が騒いで大混乱になったとか。ロシア民謡のメ ロディーや、ジャズの手法をとり入れたり、カメレオン作家と呼ばれるほど の多才な音楽世界をもっています。20世紀を代表する巨匠のひとりです。 ニューヨークの夜景と一緒に流れるのは、決まって「ラプソディ・イン・ ブルー」。新大陸の音楽を世界に発信したのは、全盛期のブロードウェイで 多くの傑作を生んだミュージカルの名作曲家、ジョージ・ガーシュイン (1898~1937)。アメリカの誇るシンフォニック・ジャズ(交響曲の構成と 編成をもつジャズ)の創始者です。 子どものための交響的物語「ピーターと狼」は、ロシアの作曲家セルゲ イ・プロコフィエフ(1891~1953)の作品。早熟だった彼は、最初前衛的 な作品を目指しますが、これに対する批判を受け入れ、親しみやすく単純明 快な表現へと転換し、上記の作品や映画音楽を残しました。 同じくその前衛性を、ソビエト当局に厳しく批判され続けたのがドミト リ・ショスタコービチ(1906~1975)です。しかし、彼の15の交響曲は、 世界中のオーケストラで演奏され続け、次第に深い理解と解釈を得、さらに 演奏技術の高度な発展に支えられて人気を得ました。

表現主義~12音音楽

20世紀初頭、ドイツを中心に始まった表現主義は、第1次世界大戦を背 景に、不安な世情や人心を、そのまま音楽に表しました。 それまでの音楽理論で作曲の前提とされていた、八長調とか、ホ短調とい った調性にもとづく、美しく心地よい音の連続やハ-モニーを否定し、不安 や葛藤をも表現しようとしたのです。この前衛的表現の手段とされたのが、 シェーンベルクが試みた訝生の放棄でした。しかし、特定の形をもたないま までは、行き詰まるのみ。そこで、考案されたのが、12音技法と名づけら れた、新しい作曲法です。これは、1オクターブを構成する12の音、(ドレ ミフアソラシとその半音)を1回ずつ使って音の連鎖を作り、これを幾通り も組み合わせて音楽を構成するという方法です。複雑で、強烈な世界を構築 するこの斬新な作曲法は、以降の音楽に大きな影響を与えています。 アルノルト・シェーンベルク(1874~1951)は、世紀末のウィーンで、 表現主義絵画のカンディンスキーなどと親交をもち、1908年、古典派の作 風から無調の音楽へと変貌を遂げました。ユダヤ人だった彼は、モノドラマ 「期待」や「月に憑かれたピエロ」などの代表作を発表後、ナチスの迫害を 逃れてアメリカに亡命。戦後は、ナチス収容所の恐憫を描いた傑作「ワルソ ーの生き残り」を発表しました。 ウィーンの裕福な家庭に生まれたアルバン・ベルク(1885~1935)は、 シェーンベルクの薫陶を受け、12音技法を用いて、叙情的な作品を残しま した。「ボッエック」と「ルル」の2つの歌劇が代表作です。 アントン・ウェーベルン(1883~1945)は、緻密な論理的構成を特徴と する作曲家で、極度に切りつめられた緊張感溢れる作品を残しました。筆舌 に尽くしがたい魅力に溢れる彼の作品は、12音技法に従う旋律や和音の扱 いに加え、リズムの配列にも同様の秩序をとり入れて、新境地を開拓しています。この技法は、第2次大戦後メシアンによって始められた、「全面的セリー音楽」の出発点となっています。 代表作に弦楽四重奏のための「6つのバガテル」「ピアノのための変奏曲」、 2つのカンタータ「管弦楽のための変奏曲」などがあります。

前衛作曲家と現代の音楽家たち

第2次世界大戦後、クラシック音楽は、一般のリスナーにとっては理解し がたい、特異な世界にはいっていきます。フランスの作曲家、オリビエ・メ シアン(1908~)らは、ウェーベルンの業績に学び、さらに秩序を重視す る「全面的セリー音楽」にたどり着きます。 全面的セリーとは音の連続を意味し、作曲の方法として、音の高さ、長さ、 強弱、音色の4つの要素を、あらかじめ定められた秩序どおりに展開し、自 動的に決定してゆく作曲技法をいいます。 近代までの音楽が、情緒や感受性を用いたのに対し、この作曲技法はあく までも人間性を排した機械論的な立場を貫きました。それは、前後の関係性 で成り立つこれまでのリズムやメロディーの在り方を否定し、ひとつずつの 音が点在することで、新たな感動を発掘しようとしたものといえるでしょう。 しかし、前衛的なこれらの技法は、理論が袋小路にはいって行き詰まり、 変わって、音楽を共有する場そのものに疑問を投げかけ、偶然生を問う奇抜 な音楽が登場しました。 アメリカのジョン・ゲージ(1912~)は、ピアノ曲「4分33秒」を発表。 ピアニストが4分33秒間、何もせずに座っているあいだに起こる客席の反 応やざわめきを、音楽であると定義づけました。当然のことながら、この作品は、その後の演奏会でとり上げられることがなく、あくまでも実験的な役割を果たしたに過ぎません。ゲージはこのほか、図形を用いた楽譜を考案す るなど、音楽そのものに対する哲学的な問いを投げかけています。 ゲージが観念の世界を繰り広げたとすれば、レーナード・バーンスタイン (1918~1990)は、クラシックをより親しみやすいものにした音楽家といえるでしょう。ニューヨーク・フイルの常任指揮者を務めたほか、「ウェストサイド・ストアリー」や「ピーター・パン」などのミュージカフレで、クラシックとポップスの音楽性を近づけ、クラシックをふたたび楽しめる音楽とした功績で知られます。晩年は、青少年の音楽教育に力を注ぎました。 このほか、歌潴り「ピーター・グライムス」「ベニスに死す」など傑作を残したイギリスのベンジャミン・ブリテン(1913~1976)、南米のリズムをとり入れた管弦楽曲「エル・サロン・メヒコ」で知られる、アメリカのアーロン・コープランド(1900~)、北米大陸の雄大な自然を歌い上げた「グランド・キャニオン」を代表作とする、フアーデイ・グローフェ(1892~1972)などが、現代を代表する作曲家としてあげられます。
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